[BlueSky: 742] 自然環境は資源か?  Re:703 :共有地の悲劇


[From] suka@nacri.pref.nagano.jp (SUKA, Takeshi) [Date] Fri, 3 Sep 1999 18:45:56 +0900

須賀です。

自然環境を資源とみることが妥当かどうかということについても、熱い
議論が戦わされています。これは共有地の悲劇の話題に関連しています
が、これとは別のひろがりももった話題だと思うので、タイトルをつけ
なおしました。

中澤さん(703):
> つまり,自然環境をたんなる資源とみるのではなく(開発にせよ
> 保護にせよ,たんなる資源と見るのは共通),それに対する「畏れ」
> をもつことが,資源崩壊を防ぐ可能性があるということを主張して
> いるのです。大雑把にいえば,ぼくが前のメールで触れた,文化に
> よる規制ということに含まれるかもしれません。

坂田さん(738):
> 1,人間と「自然環境」に関する問題に「全生物の共有の財産(宝)」というような
> アプローチの仕方をしても、感情的に気分が高揚される人がいたとしても、実質的な
> な議論を進めるためには有益ではないと思う。
>
> 2,今の状況で、倫理や自然への畏敬の念では「自然環境」は守られないのではない
> か。資源であるものは資源として認識しなくてはならないし、利害のコンフリクトは
> それを正確に認識するべきではないか。

それぞれにうなずける点のある考え方だと思います。これについての
わたしの「主張」をのべるまえに、これに関わる「事実」についての
わたしの理解をのべたいと思います。

まず、人間にとって自然環境が「資源」であるということには、2つ
の現実的な意味あいがあると思います。まず第一に、人間は動物であ
り、(光合成をする植物とはちがって)自然界のものを資源として
物質的に利用しないと生きていけないということ。第二に、人間の
経済活動は、自然界のものを資源として利用することを前提になり
たっているということです。この意味で、自然環境を資源ととらえて
保全を考えることには一定以上の裏づけがあると思います。

しかし、人間にとっての自然環境の意味は、それだけにはとどまり
ません。これはセンチメンタルにそういうのではなく、人間という
種の特性にそれを求める面が現実にある、という意味です。自然の
もつ文化の母胎、教育の場、科学研究の対象、レクリエーションの
場、美学的・神秘的・宗教的な対象などの面です。つまり物質的に
直接消費するのではないようなやりかたで、人間は自然環境に価値
をみいだしてそこからさまざまなものをうみだしています。この視点
はリオサミットで署名された「生物の多様性に関する条約」のなか
にももりこまれています。人間を主体として考えても(というより
人間を主体に考えたときにこそ)、自然環境のこのような側面が
大きな意味をもってくるのです。ですから、「自然環境をたんなる
資源とみるのではなく」という中澤さんが紹介された視点は、自然
環境の保全の考え方のなかで、実際に意味あるものとしてあつかわ
れているとわたしは思います。

そして、わたし個人の意見はといえば、自然環境は人間にとって
資源であると同時に、そのような見方ではとらえきれない側面も
もっており、両方を視野にいれて保全を議論しなくてはならない、
というものです。

Takeshi SUKA
Nagano Nature Conservation Research Institute (NACRI)
E-mail: suka@nacri.pref.nagano.jp



▲前の記事へ ▼次の記事へ △記事索引へ △青空MLトップへ

(注)この記事が最新である場合,上記「次の記事へ」はデッドリンクです。