[BlueSky: 739] Re:729 「共有地の悲劇」


[From] suka@nacri.pref.nagano.jp (SUKA, Takeshi) [Date] Fri, 3 Sep 1999 17:47:31 +0900

ゲンゴロウさん 共有地のみなさん

 須賀です。

「共有地の悲劇」のような重要な問題で議論がもりあがるのをみるのは
とても楽しいです。

> ゲンゴロウさん(712)
> > > 「共有地の悲劇」は、共有地が何たるべきか知らない者が起こす問題、
> > > ないしは、知りながら抜け駆けをする人間の起こす問題なので、
> > > 共有地というものが、完全に機能していない状態の悲劇ではないかと。

> (ハーディンは「共有地の悲劇」で実は、、
>    「無法地帯の悲劇」を言い表したかったのかなあ??)

ゲンゴロウさんのこの部分の解釈はかなり核心をついていると思います。
ゲンゴロウさんが違和感をおぼえておられるのは「共有地」ということば
からうけるイメージとこの話の内容がしっくりこない、ということでは
ないでしょうか。(これとは別に、「無法地帯」という状態が現実の世界
でどのくらい普遍的か、という問題もあると思いますが。)

中澤さんが[647]で紹介され、わたしも[685]で内容の一部を紹介したこの
文献が、この問題を解いてくれるように思います。
> David Feeny, Fikret BErkes, Bonnie J. McCay and James M. Acheson
> (1990) The tragedy of the Commons: Twenty-two years later. Human
> Ecology, 18: 1-19,昭和堂「エコソフィア」第1号,1998に,京大の田村
> 典江さんによる邦訳が載っています)。

ハーディンは1968年の最初の論文で、<「共有地における自由はすべての
ものに破滅をもたらす」と結論づけた>、と書いてあります。単なる共有地
ではなく「共有地における自由」ですから、ゲンゴロウさんがイメージされ
るようなルールがきちんと機能した共有地ではなく、ここでいう「無法地帯」
をさしていると考えてよさそうです。このことは、上記の論文にある以下の
記述からもわかります。
 <悲劇を避けるために、ハーディンは共有地を私的所有地あるは公的所有
  地とし、立ち入りや使用の権利を決めるようにすべきだと結論づけた。>

ところが、この論文の著者であるフィーニイたちは、私的所有・公的所有の
ほかにオープン・アクセスと共同体所有を区別しています。内容からみると、
オープン・アクセスが事実上「無法地帯」に相当し、共同体所有をゲンゴロウ
さんのイメージされる「共有地」に近いものと位置づけているようです。

それで、
 <オープン・アクセス制のもとでは、利用を規制することができないため
  に資源が枯渇する、というハーディンの論にたいしての裏づけがある。
  その実例は多く、公海におけるクジラ資源のなかには歴史的に乱獲され
  た典型的な例がある。>
一方、
 <ハーディンは共同体所有制のもとでの排除の可能性については考慮しな
  かった。排除という言葉によりわれわれが意味するのは、きまった共同
  体の成員以外の人間を排除することである。事実が示すように共同体所
  有制での排除の成功は例外ではなく通例である。>
としています。

つまり、ゲンゴロウさんの「無法地帯」=オープン・アクセス制
    ゲンゴロウさんの「共有地」 =共同体所有制
と考えると、ゲンゴロウさんの直感はフィーニイたちの論文の内容とほぼ
一致すると思います。

残る大きな問題は、「無法地帯」=オープン・アクセス制がどのくらい普遍的
かということではないかと思います。自然界ではこれは坂田さんのいうように
普遍的だと思いますが、人類史ではどうでしょうか。ここが大きな論争点に
なりそうです。わたしはこれが産業資本主義のグローバルな活動で歴史的に
拡大してきた面があるのではないかという見方を[685]でのべました。

Takeshi SUKA
Nagano Nature Conservation Research Institute (NACRI)
E-mail: suka@nacri.pref.nagano.jp



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