[BlueSky: 738] Re:729 「共有地の悲劇」


[From] "SAKATA, Hiroshi" [Date] Fri, 3 Sep 1999 16:33:00 +0900

ゲンゴロウ様、共有地の悲劇の議論に参加されている皆様

はじめまして、坂田といいます。

いつも見ているだけですが、ゲンゴロウさんと基本的なところで意見が全く反対なの
で投稿してみます。メールが多いので「共有地・・」とタイトルにあるものにしか目
を通していませんので、全てを見ている方にとって、繰り返しの議論であったらご容
赦ください。おまけに、長くなってしまいました。

要点は、

1,人間と「自然環境」に関する問題に「全生物の共有の財産(宝)」というような
アプローチの仕方をしても、感情的に気分が高揚される人がいたとしても、実質的な
な議論を進めるためには有益ではないと思う。

2,今の状況で、倫理や自然への畏敬の念では「自然環境」は守られないのではない
か。資源であるものは資源として認識しなくてはならないし、利害のコンフリクトは
それを正確に認識するべきではないか。

の2つです。


言ってしまえば、人間が考える「自然環境」の保全は「全生物の共有の財産(宝)」
の保全であり得るわけがなく、「人間が利用できる資源としての自然環境」の保全で
しかあり得ないのではないでしょうか?さらに言えば、もしゲンゴロウさんがなにか
しら理想の「全生物の共有の財産」の姿を考えておられたとしても、それはゲンゴロ
ウさんにとっての理想です。その姿は全生物にとって良いことなのか悪いことなのか
わかりませんし、人間の間でも意見はさまざまでしょう。

例えば、一纏めにされている全生物は、一つ一つが「自然環境」の異なった部分から
異なった方法でその恩恵を受けているのですから、それぞれの生物にとって理想の
「自然環境」の姿は異なっています。ですから、「全生物の共有の財産(宝)」を大
切にしようといわれても、何をどうしたいのやら私には全然わからなくなります。酸
素でさえ、嫌気性の生物にとっては毒なのですから。(光合成をする生物のせいで、
嫌気性の生物は多大な財産を失ったのではないでしょうか? 地球環境は共有だから
仲良くしようといわれてもできる訳ないと思います。)

生物は自然環境をいかに利用して生存し続けるかと言うことで淘汰を受けていて、無
法地帯で生存できたものしか地球上に存在しないはずです。「無法地帯」と言おうが
「共有地」といおうが用語はどうでもいいのですが、ある資源を複数の異なる利害を
持つものが利用する(ハーディンの仮定は、生物界にはよくあるきわめて一般的な仮
定だと思います)と言うことになれば、「共有地の悲劇」で考察されたような現象
は、いくらでも起こりうることとして認識するべきではないでしょうか?

生物同士の関係で言えば、私には個体の意識や行動のレベルで、全生物の利益を思い
測って行動する生物がいるとは思えません。ルールはただ一つ、自己(あるいはその
複製)を保存し得たものはこの世界にとどまれるが、それができなかったものはとど
まれないと言う、当たり前のことだけです。(なにか、他にみんなのためになるルー
ルを作っても、それを全ての生物に守らせることはできないでしょう。それにそんな
すばらしいルールを考えられる人間がいるとも思えません。おっと、もしかしてこれ
が私の自然への「畏敬の念」かも・・・)

他を破壊しながらでも生き残るやつは生き残るのです。当然、自分の生存基盤である
系を破壊してしまうものは、その系ごと淘汰され存在し得ないでしょう。系のなかで
は、はびこりやすいが、系にとっては不利益になるような利己的な生物の淘汰は、あ
くまで系の崩壊という形で淘汰されるものです。その系が何らかのかたちで維持され
ている限り、あるいは利己的な生物が系間の移動をする限り、系内にははびこったま
までしょう。(永光さんがちらっと言っていた複数レベルにおける淘汰の議論に入っ
ていきますねえ。)放っておいても、無法者が低レベルの密度に押さえられると言う
解も条件次第ではあり得ると思いますが、人間社会がそのような解に落ち着くかどう
かはわかりません。もし、系を崩壊させることなく、何らかの系内での作用によっ
て、系を崩壊させるような因子を排除しようと言うことであれば、やはり、無法者の
挙動を理解し無法地帯で起こることを考察することが必要だと思います。

資源の奪い合いは条件に応じて「共有地の悲劇」のモデルよりもっと複雑な形で進行
するでしょう(人間同士の場合は特に。例えば、国家予算という主に税金で集めた共
有財産はどのように分割されるでしょうか? みんなの役に立つように見せかけ、コ
ンセンサスを得たように見せかけながら、共同体の利益とは別の理由で分捕り合われ
ている部分が多いのではないでしょうか?)。

多くの人がやくざな人を嫌っているというのは事実だと思いますが、ではなぜ、やく
ざな人が消えないのでしょうか? また、労働者が計画的に生産したものを必要に応
じて分ける、共産主義のユートピアがなぜ崩壊してしまったのでしょうか? 共産主
義の国々では、ほとんどの人がユートピアの実現を信じていたのではないのでしょう
か?(それともしょうがないから信じたふりをしていたのでしょうか? 誰か信じて
いない人や、信じている人をカモにするような人がいたのでしょうねえ。おまけに、
計画じたい完璧なものをたてる能力は人間にはないかもしれません。)結局、まじめ
にユートピアを信じていた人が割を食っていたのではないのでしょうか? やくざな
人を減らすにはやくざにたかられる人を減らすことです。そのためには、「共有だか
ら仲良く使おう」とか「自然は偉大だし、全生物は一蓮托生だから無茶はやめましょ
う」というだけではなく、利害関係の状況を正確に把握し、どのような条件でどんな
略奪行為がはびこりやすくなるのかを検討し、それを皆が知ることではないでしょう
か? このようなことを考慮せずに、その解決を全ての人間の倫理や自然への畏敬の
念にゆだねるべきことではないと思います

そして、「自然環境」はお互いが様々な異なった形(空間・食糧の確保、開発、自然
を精神的に楽しむことなど全てを含めて)で利用しようと競合しあっている資源であ
るという認識なしには、根本的な解決はあり得ないのではないでしょうか?

「自然環境」の保全というのは、それを言うその人(あるいはその価値観を共有する
人−これを共有する人間以外の生物といったら嘘臭いでしょう−)にとっての資源の
保全でしかあり得ず。保全したいと思うのであれば、それを認識し、他人の倫理観な
どにゆだねるべきではない。という私の意見ですが、いかがでしょうか?



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