[BlueSky: 729] Re:718 「共有地の悲劇」


[From] GENNGOROU@aol.com [Date] Thu, 2 Sep 1999 12:36:47 EDT



広木さんへ、

                    ゲンゴロウです。

お返事、ありがとうございます。
ひつこいようですが、どうしても納得がいかないもので・・・
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ゲンゴロウ(712)
> > 「共有地の悲劇」の話は変ではないかと思います。
> > 「共有地の悲劇」は、共有地が何たるべきか知らない者が起こす問題、
> > ないしは、知りながら抜け駆けをする人間の起こす問題なので、
> > 共有地というものが、完全に機能していない状態の悲劇ではないかと。

広木さん(718)
>「共有地の悲劇」の「共有」は、あくまでもハーディンが仮定した状況に限定されま
>す。普通に使う「共有」の意味とは、区別して下さい。その仮定に関しては、中澤さ
>んのメール(674)をご参考下さい。一度使われた言葉は、その言葉を知っている人
>の理解をさまたげないために、限定した用法
>でしか使えないのです。「共有地の悲劇」
>で、一つの単語なのです。固有名詞のように受取って下さい。

この場合の「共有」は、ハーディンが仮定した状況に限定された
ものとすることは、よーく分かるのですが。
でも・・・
中澤さんが紹介してくださった内容を「条件」に加えると、益々、
「共有地」は、「無法地帯」という意味になるような気がします。
「共有地」を考えながら、その条件にいろいろ付け足した結果、
「無法地帯」になっていませんでしょか???
あまりにも、共有地という言葉からは、ほど遠いような気がします。
なんか、「だまし絵」のような印象を受けます。
それを、受け取れといっても、どうしても、私の脳は拒否してしまいます。
・・・・なにかが、違ってますか??私の捉え方、変ですか??

中澤さん(674)を参照
> ハーディンのいう共有地の悲劇モデルは,「共同で使用されるあらゆる資源
> は,必然的にその資源の乱開発あるいは劣化を招かざるを得ない」と予測
> しているわけですが,
> 「自制」が生き残れないのは,ハーディンが仮定した(暗黙に仮定した
> ものもありますが),(1)オープン・アクセス制,(2)個人の振る舞いに
> 対する制約の欠如,(3)需要が供給を上回る状況,(4)資源の利用者が
> ルールを変更できない,などの条件が満たされ,かつ,共同体所有制の
> 可能性や文化的制約の可能性を排除した場合に限ります。

やはり、なんか、変じゃありません?
「共有地」に「ぶったくり」を許す仮定をつくり、「ぶったくる悲劇」が
生まれると嘆くのは。
そのような仮定での限定された「共有」は、一般的な「共有」ではなく、特殊な
「共有」といっても、あまりにも「無法地帯」なのではないでしょうか?

ハーディンの論のみを、広木さんが考えていらっしゃるなら、
私の、このハーディン批判は、まったく余計なことです。
私には、「共有地の悲劇」の正誤は、どうでも良いことなのです。

でも、
広木さんは「自然環境」を考える例として、一側面の「資源」を考え、
この「共有地の悲劇」を取り上げられたので、当初は、「自然環境」が
問題だったのではないかと思ってました。で、私は、意見を言っていましたが。。。

遠回しに言うと、かえって良くないので、はっきり言わせていただくと、
環境問題として取り上げるときに、「自然環境」は、「資源」的な考えを
用いてはいけないのではないかということです。(私の意見です)
「資源」的な捉え方をすると、どうしても所有、管理というニュアンスが
起きて、私の考える「全生物の共有の財産(宝)」ではなくなって
しまいます。

経済的な考え方で、自然環境を捉えると悲劇になるのは当たり前では
ないかと思うのです。

抽象的な表現で言うと、自然環境へのアプローチは、自然を操れる、分配できる
という人間中心の考えを、完全に排除し、謙虚な気持ちになり、一度、自然を
自然の中に戻し、そこからスタートしなければ、対処療法の繰り返しが加速する
だけだと言いたいのです。(これ私の基本的な考え方です)

もう少し言うと、自然は自らが然るべき秩序を持った存在で、
自然の前では、管理とか所有などという感覚では、歯がたたない存在で、
「畏敬の念」を持たないと、とんでもないことが起きるような気がします。
で、「畏敬の念」があれば、大切な資源と考えても良いと思います。
(うん???ということは、、
   私たちはインディアンを見習えば良いことになるのかも・・・)

> > > よのなか「やくざなひと」ばっかだったら、「やくざなひと」も
> > > やっていけないはずです。
> 世の中「ヤクザな人」ばっかりでは、出し抜くべき相手がいないのです。

意味は、分かるのですが、
どうして、ここで、この話が出たのか?
そして、どういうことを広木さんが言おうとしていらっしゃるのかが
分かりませんでした。
「こうなったら、みんなやくざな人間になればいいんだ!」では、ないですよね。

私は、やくざな振る舞いをする人間の撲滅は、
「「「皆がそれを嫌うことで達成できる」と信じること」で達成できる」
と信じたいと言ったつもりなのですが。

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genngorou

(ハーディンは「共有地の悲劇」で実は、、
   「無法地帯の悲劇」を言い表したかったのかなあ??)





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