[BlueSky: 712] Re:706 「共有地の悲劇」


[From] GENNGOROU@aol.com [Date] Wed, 1 Sep 1999 11:55:13 EDT


広木さんへ、

                   ゲンゴロウです。

内容:共有の概念が達成されていない時点での悲劇扱いは、
   共有の考えを阻害する。
   悲劇を連呼し、かえって抜け駆けを助長してしまう。

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広木さん(706)にて:
> マンションの場合は、占有領域が各所有者に割り当てられていますから、
>「共有地の悲劇」の意味での「共有地」とは問題が異なります。だって、
> 勝手に建て替えたりできないですよね。

私は、マンションの土地の共同所有と自然環境の共有を考えてみると
問題が「似ている」部分と「異なる」部分があると思います。
幸いなことに、
広木さんが、「問題が異なる」という例にしたものが、ヒントになり、
こんなことが思い浮かびました。

●「マンション」の住人が、なぜ共有地に「勝手な立て替え」をしないか。
●「自然環境」の住人の幾人かが、なぜ共有地に「勝手な行動」をするのか。

これについて考えてみます。

●マンションの住人が勝手な行動をしないのは、
 「共有地と知っているから」で、「共有地と納得している」から、
  あるいは、「共有」の考えを守らざるをえない強制があるから。
●自然環境の住人の幾人かが勝手な行動をするのは、
 「共有地と知らない」で、「共有地と納得していない」から、
  あるいは、「共有」の考えを守らなくてもいい要素があるから。

こんなことを考えると、広木さんのお話は変でなくても、
「共有地の悲劇」の話は変ではないかと思います。
「共有地の悲劇」は、共有地が何たるべきか知らない者が起こす問題、
ないしは、知りながら抜け駆けをする人間の起こす問題なので、
共有地というものが、完全に機能していない状態の悲劇ではないかと。

確かに、共有地どころか、人の土地にゴミを捨てる人間はいます。
あれは、確かに、抜け駆けでしょう。
でも、それは、まだ、共有地が成立していない状況だと考えたいです。
私には、「共有地」という認識が少ないのではないのかと思えます。
そう考えると、私には、この「共有地の悲劇」は、
「共有地と思いこんだ者たち」と、「共有地と思わない者たち」の
起こす戦いになるのようなきがします。あるいは、
「共有地の悲劇」は、「共有地を脅かす者によって起きる悲劇」に
なるのでは??

この「共有地の悲劇」の話の中に、なにか、囚われが根底にあり、
「だれでもやる可能性があるから仕方がない」という甘い姿勢を
浮かび上がらせていると思います。
その考えが、「自然環境」という共有の概念を再び、「資源」に
おとしめているように感じてなりません。
まるで、「やくざな人間」に媚びるように思えてなりません。

これでは、みずから「共有地の悲劇」を招いてしまうように
感じます。

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>> 広木さんの、「自然環境は人間にとって資源」のお話、とても考えるものが
>> ありました。

> 「人間にとって『は』資源」であるのであって、「人間にとって『の』資源」
> ではありません。あくまでも私は、地球上の様々な相互作用のうち、人間社会
> の中の相互作用のみを注目して取り上げているわけです。
> それとは別に、他の生き物の活動と言うのは厳然として存在します。

はい。それを、私は、上の私の文で確認しました。
その意味で、「共有地の悲劇」は非常に勉強になります。(今も)

だだ、広木さんのお話を理解できるものの、広木さんが考える元にしている
「共有地の悲劇」のお話の根底が「なにかへんだなあ・・」と最初に感じた
のです。

もう一度、別な言い方で言うと、、、
「共有地」と言う設定が出来ていない時点で、「共有地に共有は達成できるか?」
と考え、出来るはずがないと先に答えを出し、「共有地の悲劇」を考えている
ような気がするのです。

このことは、今の環境問題の解決にも言えると思います。
環境に対する啓蒙の努力を十分にしていないのに、
もう、悲劇を感じているのではないでしょうか。
勝つ前に、負けています。(わかるかなあ・・)

共有地の悲劇を考えるずっと以前の段階です。
「自然環境は全生物の共有物である」という考えを広めることを怠る本質には、
人間の良心に委ねたいとする考えがあるのではないでしょうか?

「共有地の悲劇」の成立は、根底に中途半端な人間信頼が残っていることで、
人間不信に陥っている者が作った話のように思えてなりません。
それ以前に、私は、人間中心主義が作り出した、愚か話にも見えます。

> ようするに、相互作用が限られた人の間で起こる時には、協力行動と
> 言うのは簡単に成立します。

> ひとたび協力行動が確立したら、「抜け駆け(チーターcheater)」の有無が、その
> 存続に重要になります。一人だけ甘い汁をすわれれば、他の人の身入は減りますから。
> そこで、協力する対象を選ぶことになります。裏切られたらただじゃあおかないぞっ
> と。タブーなどは、これの相当するものではないでしょうか。ただ、たまたまエラー
> が起きる確率もありますから、それにいちいち反応していたら社会の生産性が低下し
> ます。そこで「寛容」というものが重要になるのです。ちょっとは大目に見るか、と。
> いわば、もちつもたれつ、なわけです。
> 閉鎖集団ならば事はこれでおしまいですが、実際は、集団間の人の移動があるわけで
> す。そこで、見ず知らずの人との相互作用の時にどうするか。ここが非常に面白い所
> です。
> また、どのくらいの頻度で移動が起こるか、それが、協力行動の安定性に影響を与え
> ます。さらに、集団が大きくなれば、各構成員間の相互作用回数が減りますから、こ
> れも同様な作用を持つと思います。

うむ。。。よーく考えていらしゃるなあと思いました。
確かにそういう感じで「ずる」が野放しになるのでしょうね。
でも、広木さんが言っておられるのは、かなり、低俗を目指す集団の中での話です。
たとえば、今の日本の経済界や、政界にいる人たちでは?
かれらは、それこそ、広木さんの言うところの「ぶんどり」思考ですね。

共有の財産を、共有の財産と思わない連中の持ちつ持たれつです。
だからこそ、「共有」の意識を持たないといけないのでは。。
広木さんが「悲劇」とお考えでないのならいいですが、
あきらめて、「悲劇」を考えるには、まだ早過ぎます。

>> それを、また「資源」でしかないと、戻してしまうと、なにか、
>> もったいない気がしてなりません。

> 最初にも書きましたように、あくまで物事の「一側面」に注目している
> だけですからお間違いのないよう。

そうですか。
ご本人が「一側面」にとおっしゃっているのを聞いて、安心しましたが、
それでも、ここまで、「ずる」について深く考えられていることをお聞きすると、
もしかすると、自制しない人間の存在に、悲劇的な結論を持っておられるのでは
ないかと心配になりました。老婆心ですが、
悲劇的な考えから、諦めがあり、それが、抜け駆けをする者を許す羽目に
なっているのではないかと本当に心配なのです。

「共有地」の悲劇は、「共有地」という観念を広めれば、あるいは、
広める努力をしているうちに、自然に消える「お話」だと思います。

> > あ!もう少し。。
> >
> > 「集団自制の戦略」とは、「みな、自制をしようとしているんだ」という
> > 例の集団催眠みたいなものだと思うのですが。やはり、人の自制を信じないと
> > 始まらないような気がします。
> > 私は、「やくざ」な人間の誕生も、人を信じないことから「芽」を出すと
> > 考えています。
> > みんなで、「やくざ」を嫌えば「やくざ」も大手を振って歩けないはずです。
> > それでも「やくざ」はいるでしょうが、、それは、想いが少ないからだと
> > 思います。

> よのなか「やくざなひと」ばっかだったら、「やくざなひと」も
> やっていけないはずです。

????

>ただ、人が多いと、不特定多数の人間同士の相互作用が増えますから、つけい
> る隙があるのですね。

そうですね。
巧みに見えないように付け入る隙を狙う方法も逆に研究し、
監視が出来るようにしなければいけませんね。

最後に、「共有地の悲劇」を教えてくださった、広木さんに
お礼を申し上げたいです。
いろいろ、考えました。ありがとうございます。

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ゲンゴロウ





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