[BlueSky: 711] 思春期の前と後 Re:700 ,:683 「森と環境」教育での教材例 Re427 子供の遊び


[From] 後藤 健 [Date] Thu, 02 Sep 1999 00:54:12 +0900

水野さん、青空MLの皆さん
                 後藤@帯畜大です。

今回は長文になってしまいました。

これまで以上のことは何も言ってないような気がしますが、暗示的な事
柄を明示的に表現したことが少なくとも一つ(クリスマスの項)はあり
ます。

水野さん【700】:
> >ず」のかたちにもできることは理解できます。いってみると、「可能な
> >教材」には違いない、という主張であるとも受け取れます。
>
> まずは、そのレベルの主張しか、していないと思いますので、
> そういうご理解がいただければ、まずは十分であります。
>
> あとは、理念の問題と、方法論の問題、時期の問題などです。
はい、全くそのとおりですね。
でも、この具体化の段階でのさまざまな弊害を僕は指摘してきたつもり
なのです。

・・・【683】でも、【「(一部の)こどもが理解できるはず」のか
たちにもできることは理解できます】と、敢えて(一部の)とい
う限定をつけておきました。

再三述べてきたと思いますが、思春期を迎えるのは女子が2,3
年早いです。思春期の開始は女子では小学校5,6年でしょうか?

おまけに「ぶりっ子」する子も、女子のほうが割合としては高い
という印象を僕はもってます。なにしろ、女子の場合、(平均的
に見ると)ままごとの世界が基軸にありますからね。

さて、思春期を境にこどもの世界(世界像)はがらっと変わる。

> >しかし、なぜ敢えて思春期前に行うことが「必要なのか」という肝腎な
> >点についての説明は、水野さんからはしていただいていない、と僕は思っ
> >ています。
>
> それは、環境問題こそ、それこそマスメディアなどを中心として
> 大量の情報が、すでに(子供たちのイメージに)はいっているからです。
> それを、やはり、きちんと、教えるべきではないか、というのが、主張の
> ポイントだと思います。

思春期前のこどもにとって、そうしたイメージはレトリック以上のもの
ではないでしょう。

・・・たとえば、われわれの世代は共産主義=アカ=恐いもの、という
イメージの中で子供時代をすごしたものと思います。僕自身も友
達と喧嘩するようなとき、「アカ」という呼称を言ったり言われ
たりした経験があります。

しかし、その2、3年後には(つまり思春期に入って)、「アカ」
の正体を理解し、、、その結果、近所の大人から「アカ」と呼ば
れる栄誉(?)を僕は受けました。

つまり、思春期前に「世界観」に深く入り込まざるを得ないような事柄
を扱っても基本的に無意味、「ぶりっ子」には仮面をつけるようなもの、
というわけです。

水野さんの論点(↑)は、対処療法をすべきだ、ということにあるよう
ですが、「無意味」または「仮面」を生むために貴重な授業時間を割い
ていいものだろうか、というのが僕の反対論です。

> >「高度な内容」を教育するにあたってのリスクを僕は反対論
> >の根拠としたわけですが、
>
> 何を教えるべきか、ということは、リスクではなく、何を教えるべきか、
> ということと、それをどのように教えるべきか、ということで議論すべき
> であって、リスクがないように工夫することが、教育者の役割であると
> 思いますので、リスクを、さほど、重要なこととは思っておりません。
> ということで、擦れ違いになりそうですが、...。
「教えるべきでは「ない」」というのが僕の主張ですから・・・。
その根拠を「リスク」という言葉で今回は一括したのですけれど・・・。

・・・たとえば、今でさえ落ち零れがたくさん出ているのに、より高度
な内容にすれば、他の条件が同じだとすると、より多くの落ち零
れが出ることは、自明のごとくに明らかです。

でも、水野さんは確か、落ち零れが(今以上に)出てもしょうが
ないという御立場であるようですから、、、この点では全く噛み
合いません(こどもが教育を受ける権利についても全く見解が異
なるのでした)。

勉強嫌いをつくることが学力低下の基本要因だという僕の意見に
対し、水野さんは教材レベルの低下を基本要因にあげているので
したね?   すいません、ちょっと、過去ログをひもとく状況
にないもので。


> >水野さんがそのメリットや不可欠性について
> >いろいろ説明してくださらないと、「高度な内容」が「必要不可欠な教
> >材」として合理的に認定されることは不可能であろう、と僕は思うので
> >す。
>
> 教育は、メリットがあるからする、というよりも、社会を生きていく上で
> 必要なことを、幅広い常識にしてほしい(それを当然の教養として多くの人
> に身に付けてほしい)ことを教えればいいだけだと思います。
ここは、教育内容の国家統制を擁護する立場の水野さんにとっては矛盾
した見解になっています。国家統制のメリットとは国家有為の人材を養
成するというメリットにあるのです。

ただし、僕が「メリット」という言葉を使ったのは単に「プラスの側面」
という意味でした。誤解させてすみませんでした。

>
> 「必要不可欠な教材」については、私の長年の科学者経験(そして社会
> とのかかわりを多少とも経験した、という体験)から、直観的に
> 大事だと思っていること、を、初等教育においても、教えられると
> 思うので、それを、その段階での教育内容としても、教えていっては
> どうでしょうか、という主張(意見表明)です。
>
> つまり、社会というものと自然というものを、どのように捉えるのか、
> ということを、個別的にではなく、それこそ、総合的に、とらえる
> ことが必要であることは、説明の必要がないと思います。
はい、大人がそういう態度を身につけていることを強く望まれる、とい
う点については全く同感です。

> それをやるのに、環境問題は、適切なテーマだと思います。
そうですね。青空MLもそのような「共育」の場に育っていってくれれ
ばいいですね!

では、どうして思春期前のこどもに「も」それが適切なのか、という点
に関しては、水野さんの主張は単に「対処療法として」という点にある
ように思います(既述)。

>
> その教育レベルを、もうちょっと上げるべきではないのか、という
> ようなことを、私はいいたい、ということだと思います。
>
> それが出来るとする判断の根拠には、私の少ない体験からですが(直観的に)、
> 子供たちにはそれらへの理解力があり、(無意識でしょうが)環境問題への
> 関心が極めて高い、とする点の認識があり(それは多分に、あおられた結果
> ではありましょうが、いずれにしても)、それを「正しく」認識してほしい、
> とする私の期待があり、またそれが出来るだろうとする、私の彼等への信頼
> があります。
思春期以降なら問題はないだろう、と僕は再三申し上げてきています。
なぜ思春期前に必要なのか、、、水野さんの論点は「対処療法」にある
のですが、既述のように僕はそれは有害無益だろう、と思っているわけ
です。

>
> どんな教育内容も、それを教えるべきだとすることが、「合理的に認定される
> ことは不可能であろう」と、思います(教えなくてもいいとする反論は、
> いくらでも出来るでしょうから)。
たとえば、算術や読み書きにも、教えなくてもいいとする反論を行って
みてください。

> でも、それを知っていてほしい、ということは、文化の問題として、あるいは
> 何を社会常識としてほしいのか、という議論として、ありうるわけです。
> そういうことは、広く理解はされる、と思っております。
この点に異存があるわけではありません。何度も申し上げるように、僕
には現行の落ちこぼし教育という現実を何とかしたいという希望があり、
また、子どもたちの素直な欲求を基軸にした教育をしてほしいという希
望があります。

その上で、子どもたちがどのような世界観を身につけていくか、それは
思春期以降の彼らの自由選択の問題として残したい、という「思想信条
の自由」を保証したいという希望があります。

初等教育において、この文脈で大切な点は、自由に思考する態度と能力
です。これを培っておれば、思春期以降、どのように複雑な問題でも、
「熱意さえあれば」、取り組んでいくことができます。

この熱意は、「高度な内容」を教えることからは生まれてこないのは明
らかですし、自由に思考する態度や能力の養成にも「高度な内容」が必要で
あるわけではないこともまた明らかなのです。

>
> 理解できない、というのならば、それは、その内容が、社会常識になっていない、
> ということでしょう。
>
> 初等教育では、学校では環境問題の基礎を教えればいいのでしょうが、
> その基礎自体が、実は、大局的、ふかん的、グローバルな見方、バランス感覚
> のようなものと、定量性への理解、というあたりを抜きには、語れない、と
> 思っております。そして、それはすでに十分に社会常識になっていると思います。

少なくとも青空MLに集うような方々の間では「常識」になっているで
しょう。

で、何度も申し上げるように、その基礎自体を「だれかに」教えること
そのものに僕が反論しているわけではないのです。そうではなく、「思
春期前のこども」に教えることに反対しているのです。

思春期前のこどもにとって、世界は基本的にローカルであり、グローバ
ルな言葉を使っていたとしても、その実体はローカルなものにとどまっ
ているはず、と僕は信じているわけです。

なぜ、思春期まで辛抱して待てないのか?

機が熟すまで待ってあげようよ、と僕は言っているわけです。でも、水
野さんはこどもを思春期前と後とで区別した議論は一切行っておりませ
ん。論点が噛み合わない最大の原因の一つは、思春期がこどもの転機だ
という一般常識(あるいは「十分な社会常識」)を水野さんは一貫して
無視した議論を展開しているためだと僕は思っています。

大人なら知っていなくてならない事柄はいっぱいあります。
水野さんの論法で行くとそれを「理解できる」子が(一人でも、とはおっ
しゃらないでしょうが)いる限り、小学校教育の教材にすべきだ、とい
う結論になります。

僕の論法は、大人なら知っていなくてはならないことでも、こどもには
知らせてはいけないことがあるのではないか、ということでもあります。

・・・たとえば、クリスマスの楽しみの一つは、いかにこどもをだまし
幻想の世界にあそばせるか、という点にあるでしょう。こどもの
ほうは、成長に連れて真実を知りますから、それ以降は、「知ら
ない振りをして」親をいつまでだませるか、というかたちで楽し
みます。

あるいはまた、避妊の方法に関する知識は「十分に社会常識とな
っている」事柄ですし、思春期前のこどもでも理解できる子がい
るかも知れません。が、だからといって思春期前のこどもに教え
るべきだという結論は導かれません。むしろ性に目覚め、誰もが
興味関心を持つようになる思春期以降のこどもに教えるべきこと
なのではないでしょうか?

思春期はまた(再三述べてきたように)社会的正義にも目覚める
時機ですから、環境問題は絶好の教材になるわけです。どうして
この時機まで待ってあげないのか?その待てないことの説得的な
理由をお聞きしたいのです。

教えることも大切ですが、教えないこともまた、それ以上に大切なこと
だってあるのです。

大人がこどもの力を「信頼」するとは、こどもの主体性なり育つ能力を
信頼する、ということです。でも、この信頼に依拠して教育するという
ことはホントは一番難しい。要するに、ホントは信頼してないのですね。
だから、知識を押し付けたり、管理統制を厳しくしたりして満足してい
るのではないでしょうか。教える側としては、いちばん手っ取り早いで
すし。

でも、教育効果としてみると、これは極めて実効性の乏しい方法です
(もちろん、この点は、教育目標をどこに置くかという点に強く依存し
ています)。主体性を無視しているためです。血となり肉となる知識に
はならない。これは重要な社会的損失だ、という視点が必要だと思うの
ですが、国民全体がこの社会的損失を生むことに加担し、また喜んでい
る(社会的損失という意識は皆無だから)。

・・・それでも、国家有為の人材を養成することはできてきました。国
家のために、とは官僚社会のためであり、一部大企業のためであ
り、、、ということであるわけですからね。

しかし、本当に有為であるのは、国民の永続的な幸福に貢献でき
る、ということに「あるべき」です。その意味では日本の教育は
失敗してるといえます(尤も、それを意図してきた事実はありま
せんから「失敗」という言葉は不適ですが)。

ただし、言われたとおりに実行するという実務型能力の養成には
適していることを認めるに僕もやぶさかではありません。しかし、
これは水野さんの望む教育理念とは矛盾しているはずです。

こどもの主体性に重点を置いた教育を行うなら、知識も知力もホンモノ
が育ちます。それはまた、こどもの試行錯誤を尊重する教育でもありま
すから、知識詰め込み効率は落ちますが創意工夫能力の涵養には最適で
す。だからこそまた、未来を彼ら自身の判断に委ねることができる、と
いうものなのです。

・・・もちろん、前世代はこう考える、ということが教材になります。
思春期以降のこどもは、それを批判的に受容することを通じてそ
れを乗り越えたものを作っていくでしょう。これこそ、伝統的文
化の望ましい継承形態でしょう。そのためには、何度も申し上げ
るように、そういう熱意と態度と力を思春期前迄に培っているこ
とこそ大切なのだ、と思うのです。で、そのためには「高度な内
容」は百害あって一利なし、と僕は思っているのです。

教育内容を考えるのは大人です。こどもにはその成長段階に応じた勉学
要求がある、かと思います。その勉学要求の内実の変化が最も明瞭な時
期の一つが思春期です。この主体的要求の変化を十分に汲んであげない
と立派な教育にはならないと僕は思います。水野さんの論法には、残念
ながら、この主体性の変化についての配慮が(少なくともこれまでのメー
ル応酬の中では)一つも感じられないのです。

あるこどもが思春期になる年頃に、ローカルな正義からグローバルな
正義を求めるように変化していたら、その子はまっとうな思春期を迎え
たと見てよい、と僕は思っています。 そうでない場合、大人への飛翔
を妨げる何かがその子にはくすぶっているのでしょう。それは学校教育
以前の問題ですが、学校教育がその妨害要因を作っているだろうという
ことも、僕は再三申し上げてきたように思います。

後藤 健


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