[BlueSky: 679] 原風景としての昆虫採集


[From] Minato Nakazawa [Date] Tue, 31 Aug 1999 12:02:40 +0900

中澤です。昆虫採集・標本スレッドの皆様,こんにちは。

標本についてはとくに分類学・博物学的立場に異論はありません。
参考になるかどうかわかりませんが,医動物学で蚊の標本をつくる
ときは,ナフタレンを融かしたものをスチロール管に流し込んでから
グラスフィルターを敷き,さらにシリカゲルの粒を入れてフィルター
を載せた上に蚊を入れたり,針の先に瞬間接着剤で付けたりすること
がありますね。あれだと,針は刺しません。本質的違いはないんですが。
#まあ,大きな虫には無理でしょうけれど。

標本ということを離れて,昆虫採集に関していうと,個人的には,何か
原風景のようなものを感じます。ぼくは東京生まれ東京育ちですが,
子どもの頃,野原でスズメノカタビラを引っこ抜いて根の間に見つけた
名も知らぬコガネムシの類の幼虫が,カブトムシの幼虫を小さくした
ような形だったことや,カマキリの卵から小さいカマキリがウニョ
ウニョと雲のように湧き出してきたこと,草の間に見つけたコガネ
グモの鮮やかな体色とか,公園の桜の木に思いがけず見つけた
タマムシを捕まえたときのドキドキした気持ちとか,今でも昨日の
ことのように思い出せます。たぶん,後藤さんがいわれる,「ターザン
ごっこができる町」ならば,とくに気負わずとも,こういう昆虫採集は
できるでしょう。こういう体験は,ぼくの根っこのところで,
自然の森羅万象に向けられた好奇心を支えているのではないかと
思います。ひいては,環境への関心,というか脳の外の世界への関心
(身体性)にも,大きな役割を果たしているように思います。
#ヒトは脳のみにて生きるに非ず,というか。

別メールで触れた「エコソフィア」という昭和堂から出ている
雑誌の第2号(1998年)の巻頭特集が,「昆虫少年はどこへ
行ったの?」というものなのですが,ここで片山一道さんが
書かれている『「昆虫少年」伝説』という一文は,上でぼくが
書いたこととかなり気分としては近いように思います(もっとも
ぼくは,都会でも都会なりの自然は原風景としてありうるのだ,
と反論したくもあるのですが)。

同じ特集で,森毅さんが書いている「自然のなかの孤独」という文
では,昆虫採集のギャンブル感覚養成価値が述べられています。
昆虫少年だった彼の原風景として現れるのは,珍しいカミキリムシ
なのですが,『こうした虫はもとめて採ったわけではない。思いも
よらぬときに向こうから勝手に出てきたにすぎぬ。(中略)予測し
て計画するのは人工の世界であって,自然では何が出てくるかわか
らない。(中略)ほとんどはむだで,たまに幸運があるからうれし
い。(中略)人間が生きていくのだって自然であって,人生で何が
起こるかわからん。それがどうも,このごろ過剰に計画されている。
中学生や高校生には,競輪や競馬が禁止されているから,ギャンブル
感覚を知るために昆虫少年になるとよい』と書かれています。

共有地の悲劇スレッドでぼくが主張している,予測に基づく共同体管理
矛盾するようですが,ここでいいたいことは予測の否定ではなく,
自然が予測通りになることはありえないので,予測が覆ったときに
それを楽しんで適切な対応ができる強靱な精神力の育成に,昆虫採集
も役立つのではないか,ということです。森さんがいいたかったこと
もそうではないかと思うのですが。

というわけで,とくに子どもの昆虫採集は,メリットが多いように
思います。

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Minato Nakazawa, Ph.D. <minato@sv3.humeco.m.u-tokyo.ac.jp>
Department of Human Ecology, Univ. Tokyo


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