[BlueSky: 641] 雑:「私の生命観 


[From] GENNGOROU@aol.com [Date] Fri, 27 Aug 1999 07:19:02 EDT


青空MLの皆様、こんにちは。

                 GENNGOROUです。

今日は、「命」についてです。
意見ではなくて、疑問の羅列です。
ただし、長くて、くどいです。(予告)

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識@さん(613)にて:
> 命の捉え方は人さまざまですね。

織さんのおっしゃるように、「命」の捉え方には、いろいろあるようです。
私の中でも、数ヶ月前から、「生物観」「生命観」が変化してきています。
その変化は、長峰さんの(633)の変化に似ている部分もあります。


******私の最近の生命観??******************************************

私は、最近、、
「意識」がほとんどない生き物は、有機体であるけれど、
カチャカチャ動く物なのではないかと、考えてみたりしています。
プログラムによって動く、精巧なロボットではないかとも。。。
でも、それがそうだと納得する考えがむずかしい。。

このことを考えるときの問題は、
ある生物には「意識があるのかないのか、、」の判断ができないことです。

私、思うのですが、、もしかすると、
「人間には意識があり動くので、人間は動く物に意識を感じているだけなのかも
 しれないんではないか」と思ってみたりもします。
また、
「予測が出来ない動きをするのが人間で、その人間に意識があるから、
  予測が出来ない動きをする物ほど、意識があるように見えているのかも」
などともあえて、考えてみます。つまり、ただの錯覚ではないかと・・・

擬人化=意識化の錯覚の例として、
人間は他者の意識の存在を相手の「目」をみて探(さぐ)りますので、
コップなどの物にマジックで「目」を書き込んだりすると、突然、
顔が出来、前後が出来、その為に左右が出来てしまったりもしているようです。
目があると、意識化してしまうので、視覚的に目を観察できない生物には
どうも強い「生命感」は起きないようです。
(もしかすると、人間の多くがゴキブリに異様さを感じるのは、ゴキブリの
  目を人間が見つけられないからかもしれない・・・)

もし、
クワガタや、海を回遊するマグロには意識など無く、ただ、進化の中で、
環境と共に動き続けてきた物質の集まりに、決められたパターンがあるのなら、、
そして、そういう物を命と言うのなら、それほど命は、精神的には尊い物ではなく、
ただ、長い生物の歴史の長大さに対してのみ、尊厳を感じているように思えて
しまいます。
言い換えると、人間は、時間的に「自分自信の一生の長さ」とこの「長大さ」
を比較していまって、他の生物に尊厳を感じることの驚きと、自分自身の命の
尊厳にたいする驚きとの区別が出来なくて、他の生物にも人間と同等の生命観
を感じてしまっているのではないだろうかと、考えてしまうのですが。。。

ここで、また、問題がでてしまいます。。。

生物に意識があるかないかは、この生物までは意識がある、ここからは無い
という線引きができないこと。そして、
人間の意識自身が、ほんとうにプログラム化されていないと言えるのかどうかです。

後者の答えには、デカルトだったでしょうか「我、思う故に我あり」という言葉を
借用できるとして、前者の答えには、ほとほと、困ってしまいます。

今、私は意識こそ、命で、命とは「精神的な物」であるということを
決めつけていますので、意識=命と、します。

で、思うのですが、、
いろいろと考えると、私としては、
人間の存在は、他者との相互存在(互いに写しあう関係)で存在を初めて
おり、自分を写してくれている他者の消滅が苦しみ、悲しみになる
ようなので、精神的な「命」の存在の有無は、他者の悲しみがその試験紙に
なるのではないかと思ったりもします。

つまり、ある群の中の一つを消滅(殺)させたときに、その周囲の個体が
何らかの異常な動きをしたなら、その群を作る生物には、悲しみ、すなわち
他者を写しあう関係が生じており、「意識がある」と判断してよく、
その生物には、私たちと同じ様な「命」があると考えていいのではないかと
思ったりしています。

ここに命の難しさが「また」あるようです。
「命」の存在が「他者の想い」によって、浮き出て来るという性質があるのなら、
同種の中でなくても、この現象は起こりうるのではないでしょうか。

ある猫が死んだときに、ある人が悲しむ場合、その猫には「命」が
あったことになります。


もし、ある人間が死んだとき、誰一人として悲しむ者がなかったらな、
その人に「命」は無かったことになります。
しかし、人間の場合には、自分自身という他者が自分の中に多数存在
しているので、このようなことはないですが、もし、その人間が自分の
死を悲しまないのであれば、明らかにその人に命はなかったことに
なるようです。これは、自殺のことです。
つまり、精神生物の自殺は、すでに命がなくなっている人が起こす、
自然な行動ということにもなってしまうのかもしれません。

******識さんの、生命観の変化について************

ここで、識さんの、命の単位が、個から群へ変化した原因も分かるような
気がします。人の想いによって「生命観」が変化することから考えられます。
あまりにも個体数が多いと、個が特定できずに、その想いは
群に移行してしまったからではないでしょうか。
けっして、個を軽んじているということにはなっていない気がします。
ただ、識さんの自己観察は、大変なものであるということにもなってしまいます。
(私の妄想によればですが(^O^))

*****命の重さ**********

こう考えてきますと、「命」の重さは、
他者の「想いの総量」にあたるような気がしてきました。
さらに、このことから、
「命の重さ」は、その命を絶つ者が決めることは絶対に出来ないことになります。
つまり、「命」の重さは、「命を大切にする意識体」によって決まることに
なっているようです。

殺人を犯した者を、裁けない原因もここにあるようなきがします。
殺人者にも、殺人者の「命」の尊さを浮き上がらせている存在が、
殺人者自身の他にある(いる)からではないでしょうか。。

 「命」の問題は、考えるとキリがありません。。。
  ほんとうにむずかしい。。。

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ところで、ここまで考えて来る中で、「意識」という言葉を勝手に使って
きたようですが、意識はやはり命で、どういう命かというと、
自分の中の自分同士が、自分を無くしたくないというものから生じたものの
ようで、これも自分自身の存在が生まれた相互存在を自己証明していると同時に、
意識と命の方法も相互に浮かび出てきた存在ということになるかと思います。

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GENNGOROU。





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