葛貫さん
>現世的な歴史的な制約、物的関係の拘束にうちひしがれながら、
>不可避の細い一本道を歩むことが、どうして自由へと開かれた世界
>につながるのか、私には、わからないです。
「現世的な歴史的な制約、物的関係の拘束による
不可避の細い一本道を歩むこと」というのは、言ってみれば、
「決まった役」を演じているようなものと考えられます。
「その役」を演じているときに「その役者の精神」が自由であることは
あり得るのか否か、と考えると、考えやすいのではないでしょうか。
「自由」というのは、その精神が、「訳が分かっていて納得している」
という状態のことではないでしょうか。
もっとも、そのような精神はうちひしがれたりはしないでしょうが・・・
>> そもそも祈りと念仏も次元の違う行為でしょ…
>
>どういうことを仰しゃりたいのか、焦点をあわせることがでません。
私は、
念仏=(浄土への扉よ)開けゴマ=呪文
祈り=神に対する直接的な意識エネルギー投射
だと思いますので、次元が違うのは当然かと・・
(なんとかいう仏様の開いたなんとかいう)浄土に往生する
(横滑りして生まれ変わる)のと、
自分が悟りを開いて仏様になるのとは、まるで次元が違う話な訳ですが、
ちょうどそれに対応しているのではないかな。
ちなみに私は、神というのはすべての本質、つまり
私を含めたこの世界全体が存在するその始源、その謎
(少なくともその謎により近いもの)の名前、と考えます。
ゲンゴロウさんの「存在は存在する存在によって存在する」
という考え方はしかし、「存在するものはすべて連動している」
→「存在しているのはただ一つのもの、全体としての宇宙だけである」
ということを言っているのと同じ訳です。
つまり、一なる世界がなぜ存在するのかやはり全然分からない。
「存在の謎」は、やはり厳然としてここにある。
それを神と名付けているので、神がいるかいないかというのは・・・
なんともねえ・・いや、名前を変えたいならそれはそれでかまわないけど・・
それから、ついでに佐世保の事件ですが、
私が知りたいと思ったのは、加害女児が、
どんな食事をとっていたか
睡眠は充分だったのか
逆上がりは出来るのか
といったようなことでしたが・・誰もそんなことは気にしていないようで・・
ケータイではなくてチャットだったようですが、
「ケータイを持ったサル」で懸念されていた
「視覚的なイメージが脳裏にフラッシュして行為決定がなされる」
というものだったのではなかろうかと・・
もしそうなら「なぜそんなことを考えたのか」と聞かれても
彼女には答えようがないのではないかなあ。
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