[BlueSky:05944] Re:  ラインホールド・ニーバーの祈り


[From] "genngorou" [Date] Sat, 26 Jun 2004 01:17:12 +0900


こんばんは。ゲンゴロウです。

葛貫さん、こんばんは、
いろいろと、ありがとうございます。
おかげで、こんがらがってしまいました(苦)

葛貫さんご紹介の「祈りの言葉」:
> > >  God
> > >  grant me the serenity
> > >  to accept the things I cannot change,
> > >  the courage to change the things I can,
> > >  and the wisdom to distinguish the one from the other.
> > >
> > >       - Niebuhr, Reinhold

ゲンゴロウ:
> > その方は、
> > 「物事を知る者は、おごらず、自らに甘んじない者である」と、
> > 言っているように感じます。
> > 私なりの感じ方ですが、「おごらず、甘んじない」というそれは、
> > 「祈る」時の、、身のありかたと同じようです。

葛貫さん:
> > > 神が、実際に、いようが、いまいが、祈らずにはいられない、
> > > 祈っても、問いかけても、これが、永遠、不変、絶対的な正解だよ、
> > > という保証付きの答えは返ってこないし、何の保障も得られやしな
> > > いだろうな、とわかっていても、否、わかっているからこそ、祈ら
> > > ずにはいられない時もあるだろうなと思います。

葛貫さん:
> この祈りの句に出会ってから、どういう背景を持った人が発した言
> 葉なのか、ずーっと気になっていたので、調べてみました。
>
> ラインホールド・ニーバーという方は、外交政策評論家でもあり、
> ケネディ大統領等、米国の政治家に影響を与えてきた方だそうです。
> ニーバーは『人間の理性はきわめて限定的な技能で、これを持つ人
> 間はごく少数で、大半の人間は感情と衝動に突き動かされて行動し
> ている“とまどえる群れ”である。だから、理性を持つ少数の人間
> は、「必要な幻想」をつくり“とまどえる人々”の感情に訴える
> 「過度の単純化」を提供して純真な“とまどえる群れ”を逸脱させ
> ないようコントロールしなければならない』という考えを持ってい
> たようです。
>
> この祈りを一見して、私は、『一般の人々が自分たちの問題を自分
> たちで考え、その決定にそれなりの影響を及ぼせる手段をもってい
> て、必要な情報へのアクセスが開かれた環境にある社会』の構成員
> であろうとする人物を想い描いていました。
>
> でも、これを読むと、ご本人は、『一般の人々を彼ら自身の問題に
> 決してかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあ
> いだだけで厳重に管理しておくべき社会』を理想とし、歴史的なで
> きごととして振り返られるような分岐点で、情報へのアクセス制御、
> 情報の単純化を行い、必要な幻想を作り出そうとする組織に身を置
> く人が発した祈りの言葉だったのかもしれませんね。
>
>  #『 』内の文は、
>  「メディア・コントロール/正義なき民主主義と国際社会」 
>  (ノーマン・チョムスキー著)からの引用です。
>   書評に目を通しただけで、私は、まだこの本を読んでいません。
>   誤りがあったら、御指摘下さい。

なんとも意外な方向に話が転回し、ショックを受けました。
一服盛られて、、着いたところが天国だと思っていたら、
そこは地獄だった。
「いったいなにを信じたらよいのか」という気持ちを奮い立たせ、
事実は受け止めないと!と頑張ってみる。。。
と、こんな状態なので、思いつきが出るばかり・・・。

−−
【多数決の方法】

 葛貫さんのお話を読み即座に思い浮かべたことは「多数決」のこと
でした。
 山道で迷ったときに、正しい道を選べる一人と、選べない9人がお
り、単純に多数決で進む道を決定したなら、その10人は間違った道
を選ぶ可能性が大きくなる。
 この単純多数決がいいのか、わるいのかという話も、考えてみると
いろいろなことがあるようですが、出来たら、進む道を決定するときに
は、ただ多数決をするのではなく、多数決以前に討論をすることが重
要であるらしいです。そうすると、選挙は政策の選択ではなく、すぐれた
指導者の選択、あるいは、理性的な討論が出来る者の選択でなけれ
ばならないことになります。
 民衆?が政策を考え、政党・政治家を選ぶのでは、ちょうど、山道選
びに、まるで選択ができない者も加わっているのと同じことになってし
まうような・・・。

【変えにくいもの、それは人の考え方】

また、
私が「the things I cannot change(変えられないこと)」、あるいは、
「とても変えにくいものごと」を考えると、真っ先に思い浮かんでし
まうのは、「人の考え、考え方、そして行為」ですが、そこから出る
一つの政策論としては、ラインホールド・ニーバーが居た立場、、
「一般の人々を彼ら自身の問題に決してかかわらせてはならず、
情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理して
おくべき」が出てきてしまい、時の指導者(アメリカ大統領など)に、
「民衆を変えようと思うな」が出てきてしまうのかもしれません。。

しかし、それにしても、「情報管理」は「情報開示」とは、まったくの
反対方向のようです。極端な情報操作といえばナチとか戦前の
日本の軍国主義を連想させます。情報統制、情報管制は政治に
必要とされてしまうのでしょうか。

【私は私の指導者】

ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉も、人によっては、その受
け取り方が違っており、その為に、有名な祈りの言葉となっている
のでしょうか。
 たとえば、リーダーと言われる人たちには、都合よい言葉なので
しょうか。この祈りの言葉は、何かしらのリーダーの心をくすぐった
り、リーダーの孤独を救う言葉になっているのでしょうか。
しかし、リーダー、すなわち、導く者を考えてみると、実は、私を導
いているのはわたし自身でもある。つまり、私は私の指導者でも
あり、決断の時はある。だからこの祈りの言葉は、個人(私)にも
あてはまる。(←これは、葛貫さんの考え↓につながるようです。)

> 個人的な問題でも、社会的な問題でも、分岐点に行き当たり、立ち
> 止まり考えるだけではなく、実際、次の一歩を踏み出すことを迫ら
> れた時に、こう祈りたくなる気持ちの真摯さには、大きな違いはな
> いのかもしれませんが。

【正しい決定など存在しないから祈るのか?】

先の葛貫さんのお話を読んだ後だと、「祈りたくなる気持ち」も、
人によって違ってきてしまう可能性があるようで、困ったものだ
と思えてしまいます。しかし、おっしゃる通り、一歩進まざるを得
ないとき、最大限に理性的に考えた時には、「その限界」を知る
ように思います。この祈りの「and」以下が、とても大切なのかも
しれません。
「the wisdom to distinguish the one from the other.(その区別
が出来る英知を(与えて下さい。))」は、「英知がない」というこ
とが前提にあり、それを認識しているから出てくる言葉のようで
す。人は、進路を決定すれば進むことが出来ると知ったのに、
その実、本当の決定をする力がない。
いや、真の決定などというものは存在しないのかもしれません。
それを知っているから、祈るのかもしれません。
だとすれば、「なんで、真実がないのだ!」という嘆きなのかも
しれません。

【未来予測の予測自体が未来に依存していたらどうなる?】

 ここに至って、いつも私が考えていることが、またもや浮かん
で来ます。それは「完全な未来予測は存在しない」という現実
です。
人は未来の決定をするために過去に学ぼうとしているのは、
周知の事実ですが、それを通して、もうかなり未来予測ができ
る能力があり、こんどは、その予測した未来を参考に現在の決
定をしているようなところがあるようです。例えば、「このままの
状態では、環境によって人類の未来は明るくない」などという、
未来をかなり正確に予測し、人は、もう、その予測した未来を
踏まえて、つまり未来に影響を受けている。
仮に、その未来を考え、ある政策を立て未来を変える方法を考
えても、こんどは、その政策によって未来が変化し始める。だか
ら「完全な未来予測は存在しない」。

【理性と感情、英知と本能】

と、こんなことを考えると、人は神に、かなり近いのに、神のように
万能には決してなれないな、と思うと同時に、理性や英知で人の
進路を決定することが果たして人の幸福に近づくのかどうかとい
う疑問を感じます。もっと感情を用いたほうがよいのではないの
か?!感情に従ったほうがよいのではないか?という考えも生ま
れてしまいます。
と、ここまで考えると、「理性と感情とは対立するものではないの
では?」という、これまた、いつも考えていることが出てきてしまい
ます。(きょうは、やめておこう。。)

ある物事を考えるとき、私は極端な仮定をしてみます。
もし、どこまでも理性的な人がいたら、きっと感情は出ないだろう。
だから笑顔がない。そう考えると、理性的な考えということは、非
人間的な考えをすることかもしれません。しかし、リーダーが、庶
民の感情も考慮にいれ、理性的な判断と決断で人々を導くことは
出来る。ただし、それは感情をよく知った人間でなければ、けっして
出来ない。すなわち、理性的な判断の結果の感情が彼にはある。
それは、庶民の感情と同じなのだろうか。。分からなくなってきまし
たが、なんとなく、この様な祈りの言葉を発する人というのは、もしか
すると、もう、神など存在していないと思っているのかもしれません。
もし、神の存在を信じているなら、「私の選ぶこの道は正しいのでし
ょうか?神よ、、お答え下さい」と、最終判断を神に問いかける。
しかし、「力をお与え下さい」と祈っている。神の存在を信じていない
者が、自らの選択を裏付けるための「祈りの言葉」にも、ふと、、聞こ
えてきます。
しかし祈る。いや、だからこそ祈るのかもしれません。なんか、とても
やっかいな、不可思議なことが人には起きているように感じはじめま
す。

長くなってしまいました。考えがこんがらがったまま、終わります。







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