[BlueSky:05934] 虫虫・・・人と神とウンコ


[From] "genngorou" [Date] Wed, 16 Jun 2004 23:36:41 +0900

 
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  虫は虫なりに一つの考え
           人と神とウンコ
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 私は、格別、神に対して考えたことはありません。また神につ
いて考えたいと強く思っているわけでもありません。しかしなが
ら、多くの人々には神がおり、それが現実の世界の中では大き
な位置を占めていることは否めない事実のようです。
神の存在が事実であるかどうかは別として、神が語られることが
事実であるのなら、その現実の世界を知るためには、神につい
て考えることは無駄ではない、いや、必要であると思えます。また、
人間にとって神という存在が、たとえ、その営みの一部分であった
としても、部分には全体が、全体には、まさに部分が関係していま
すので、「神」について考えることは、人のまざまなことを見えや
すくしてくれる可能性があるように思えます。

【存在について】

 「神」の「存在」について考えるとき、「神」より先に、まず、
「存在」とはを考えてみなければいけないかもしれません。
人間にとって「存在とは、どういうことなのだろうか?」と・・・。

 人が存在を認めているものには、物だけでなく、現象もあり、
さらに心、自分、さらに時間、空間もあります。私は神もその
一つのような気がします。

存在の発生については、私なりに、「存在は存在する存在
によって存在する」という考えがあります。一言で言うと「相
互存在」です。
 たとえば酸素は酸素だけでは酸素として存在できない。
酸素の存在は他の元素との関わり方によって、その性質が
定まり、酸素は酸素らしく存在している。そして他の元素も、
酸素との関わり方や、その他の元素との関わり方で、その
性質を持ち、「これこれの元素」という存在を定める。

 存在とは、そういう「影響」「作用」「」関係」がある場合に始
まり、それがささやかであっても、これすでに、存在は始まっ
ており、すなわち、「存在している」と言えるものだと私は思い
ます。(私たちが知らない未知の存在でも私たちに影響をあ
たえているものであるなら、それは存在している。また、直接、
私たちに影響を与えていない存在でも、それは存在している。)

【人間の存在】

 ところが、人間という意識体(生物としての人間の性質もあ
りますが、それは除外して・・・)は、ある面、他の存在とは離
れて自立することも出来る様です。ここで、私が「ある面」と言
ったのは、人は他者との相互関係で存在しているので、自立
しているとだけとも言えない面もあるということです。
 つまり、人間は自立(自己存在)が出来るという面もある。
それはおそらく、自分の記憶の中に過去の経験や他者に照
らされた自分という存在がいるから、その自分という存在と
語り合いながら相互存在をすることができるからでしょう。

 このような点で、人は時間的な存在であるとも言われ、また、
人は経験によって作られるとか、人は人に作られるとか、教育
が人を作ると言われるのでしょう。

 この自立できる存在が、すなわち人間の意識存在で、おそら
く、だからこそ人間なのでしょう。しかし、人間は地球以外の知
的生命体とは、まだ遭遇していない。そのため、自立し始めた
人間は、大きな孤独にさいなまれるようです。そこに、人間が
他の優れた意識体を求める要因が生まれてしまう気がします。

【神の誕生】

 人がある者を求め、想像すると、その想像によって心の中に
生まれたものは、想像の中からも、自らに影響を与えはじめま
す。もともと存在とは影響(作用)関係なので、たとえ想像物で
あっても、もしも人に強い影響を及ぼすならば、それは、もう確
固な存在と言えます。私は、それこそが神の出現であり、誕生
の仕組みであると考えています。

 時間もある意味では、「人間が作り出したもの」と言えそうです。
方向も、色も、意識も、そして、神も。。。
人が存在を感じるものは、すでに存在していると考えた方がよい
のではないでしょうか。多くの人が、あらゆる場面で想像し、その
想像に影響(作用)を与えられると、「神」と呼ばれ存在が現れる。
もう、これは、物が存在していることと同じことだと思えます。

 「自分」という存在は、誰かが言ったように、「我思う故に我在り」
であり、これがどうしようもない自己存在発生の仕組みのような気
がします。同様に、神の発生も、「我思う故に神あり」で、神は「我」
ごとに存在するようです。問題は、これが、人間に悲惨な混乱をも
たらすことです。
 優れた存在として求め、想像し、生まれたのですから、神は生
まれながらに、「絶対」であり、「一番」でなければならないという
前提がついてしまっています。しかし、我ごとに神はいる。
その為に、「一体!どの神が本当なんだ?!!」「神はいるのか
?!」と、人はとんでもなく悲惨な悩みを持ってしまう様です。

【「神の存在の有無」は論議できない】

 たくさんの神が人間の前に出現するために、人は、「どの神が
ほんとうの神だ?!」と考え、そう考える人たちを見て、さらに、
「神はいるか?」という疑問まで持ち始めてしまうようです。

はたして、「神の存在の有無」は問えるのでしょうか?

 もし、私が「貴方は神の存在を信じていますか?」と問われた
なら、私はなんと答えられるのでしょうか。仮に、私が疑いもせず
に神の存在を信じていたとしたら、「神を信じる」という観念も、私
の意識の中には存在できないような気がします。「ある」に決まっ
ているのに、「あるの?ないの?」という問いはなく、また答えな
ども、あるはずもない、と、そんな気がします。
もしも私が簡単に、「はい。私は神の存在を信じています」と答え
たなら、私は「神の存在」を信じていないのに、「神を信じています」
とウソをついたことになるような気がします。
 こう考えることで、私は、「神はおられます」と語る人のその言葉
は信じられないのではないかと思います。神の存在を疑わない者
は、「神はおられます」と言うことに、微妙だが大きな違和感、ある
いは、ささやかだが大きな抵抗感があるのではないでしょうか。

 簡単に言ってしまえば、神を信じる者は「神は存在する」とは言
えず、神を見たこともない人は、「神は存在しない」とも言えない。

 極端なことを言ってしまえば、自己認識がない虫と、自己認識が
自分にはあると信じている人間とは、「自己の認識」について語り
合うことはできないようなことが、意識の誕生の延長上にある「神」
についても、起きているのではないでしょうか。

 神が本当にいると考えている者には、「疑問」自体がないのです
から、神の有無を論ずる姿勢がない。その為に、論じる姿勢が強い
「神の有無を問う者」とは、まったく「神の有無」を論ずることは出来
ないようになるのではないでしょうか。神がいるかいないかを語り合
えるのは、疑っている者同士だけなのかもしれません。また、信じて
いるもの同士は、もちろん「いる?いない?」は論じません。

例えば、「おにぎり」。。。この世に「おにぎり」が存在しているのを
前提にするので、私たちは「おにぎり」が存在しているか否かは話
し合わず、「どんなオニギリが一番美味しい、どんなオニギリに栄
養が多くある」という討論をする。
つまり、私たちが確実に存在しているものとしていることについて
は、「有無」は、問うことがないのではないでしょうか。ただ、「一体、
どれが?本当のオニギリ?」ということを争うことは起き始めるよう
です。その場合、ひどい時には武器を持ったり、武器の中に入り込
んだり、自らが爆弾になって戦いを始めてしまうようです。

さすがにオニギリではそうはならないでしょうが、こと、すがってい
る、あるいは、その神の言葉に従って集団がまとまっていたりする
と、生死に影響するので生死をかけた戦いになってしまうようです。
(これを換言すると、「生死をかけた行為は、すがっていることに関
係して起きる。」という副産物が得られるでしょうか。。)

また、神を疑っている者同士が、「神の存在」を語り合うおうと
すると具合がおかしくなるのではないでしょうか。語り合ってい
るのは、互いに中途半端な者同士。同じ者同士、さらには中途
半端な者同士は論争することなどできないはずなのに、論争を
することになり、結果、具合がおかしくなるのではないでしょうか。

そして、さらに推測するとすると、その具合の悪さを、人は往々
にして、身近にいる人間のせいにする。そして、簡単に罵倒し
たり、攻撃したりし始める。「問い」自体が、人の脳を苦しめ、
問う者も攻撃を受けることになるかもしれません。つまり、
戦いは中途半端な者同士の間でも起きる。(生死をかけた戦
いにはならないでしょうが、時にして、殺意は生まれる。)

 とてもややこしく変なことを私は言ってますが、この「神の存
在問題」は、人間の本質にも関係してくるので、実にややっこ
しくなるようです。しかし、人間の本質にも触れることなので、
考えるだけの価値はあるようでもあります。

【人間が神を作ったのか?】

 様々な神に関しての言い伝えには、「神が人を作った」とい
う内容のことがありますが、私の前の記述は、まるで、人が神
を作ったと言っているようです。しかし、私は「人間がすがりつく
存在として、人間の意識に神が生まれ、そして、人はその神に
すがりついた」と感じていますので、決して、「人間が神を作り
出した」とは言えないと思っています。微妙なことですが、大切
なことに感じますので、そのことを説明させてください。

 人間のお尻から出てくるウンコも人間が作っているとは言え
ません。また、人間の頭の中に出てくる思いなども人間が作っ
ているとは言えないような気がします。さらに、「人間」を作った
のも人間ではないはずです。さらにまた、「人間の意識」も人間
が作ったわけではない。それと同様に、「人間の意識の中に誕
生した神」も人間が作ったとは言えないのではないでしょうか。
あえて言えば、「神は宿る」と言われるように、「宿る」ものなの
かもしれません。

肉体をコントロールする神経組織の束に意識が宿ったように、
今度は、その意識に神が宿った。それは、人間が神を作ったと
いうこととは違うように思えます。

【具像の神の有無】

 ここで、触れなければならない問題に、俗に言う、「実際に具
体的な神が存在し、その神が粘土をこねて人間を作ったかどう
か?」です。言い方を変えれば、物質に触れられる神、すなわち、
神は物質的であるか否か?です。

  # 私の相互存在の考え方では、物質に作用する、
  # あるいは作用を受けるものは、物質になる。意
  # 識に作用するもの、あるいは作用されるものは
  # 意識になる。

 私は、この「具像の神」を考えるとき、その答えよりも、「人はな
ぜに具体的に確実に存在する物質的な神を望む、あるいは探し
てしまうのか?」という疑問を持ちます。なので、神は物質的であ
るかどうかということよりも、それについて考えることが、この具像
の神の存在の有無を考えるには良いと思います。

 この世界、宇宙、生き物を、人は、知れば知るほど、その「見
事な出来映え」に驚嘆してしまいます。おそらく、時代時代で、
人間は、自分たち以上の存在がないのに、自分たちが作り出
せないほど巧妙な存在が存在することを知って来たのだと思
います。それは、きっと、すぐれた頭脳を持つ人ほど発見する
ことであり、また論理的な考えを持つ人ほどに合点がいかな
いこととして、出現し、実に不可思議なことに遭遇することに
なったでしょう。

 宇宙を知れば知るほどに、また、自然界を研究すればする
ほど、優れた事物が人間の眼前に現れる。時に、まだ、科学
分析方法も、顕微鏡も、電波望遠鏡もなく、学問も未熟で、自
然発生という観念・概念もなかったのですから、「人間より優れ
た存在がこれらの世界を作ったとしか考えられない」という考
えにおちいったのでしょう。
 人は信じられない現象を理解する、この時に、「誰か」を作り
上げてしまうようです。現象が現象を生んできたことを理解でき
ない時に、人は「誰か」を作りたくなるくせが、自らを見続けたこ
とで起きてしまうのではないでしょうか。人間のくせのようです。
そして、人は感覚的(視覚、触覚、嗅覚、他)な生物であるが故
に、見える具体的な誰かを、探してしまうようです。

【自然現象と神】

 今も同じ様なことが起きている。というか、人間の力を信じ
て疑わない時代にこそ、それ以上の存在が眼前に見えて
くるようです。現代のように科学が急成長した時代に、一方
では、神とか神秘が顕著に現れてくるのかもしれません。

 とにかく、生命の誕生も、、それはそれで、すごいことが起
きている。生物は時間だけでなく、数をもって膨大な試行錯
誤を行っている。この宇宙の誕生も知るほどに分からないこ
とがより出現してくる。宇宙が何であるかもしらないうちから
驚く。
 そういう信じがたいことを人間が知ったわけですが、それは
入口を覗いただけで、まだ何も、人は知らない。宇宙は見え
るが、なんであるのかを人間はまだ知らない。(意味探しを
するから知らないことが生まれ、分からなくなるのでしょう。。
意味探しが人間独自の思考のくせだったら・・・。)
 知らないものを、「それは」何?とは問えない。なのに、短い
一生を急がされる人間は、問いを始めてしまう。だから余計
に早急な結論を繰り返し、人の世界はグチャグチャになる。
未知との遭遇では、そういうことが起きるものなのかもしれま
せん。

 どんどんと余談になりますが、もしかすると、問いと答えは、
いつも同時なのかもしれません。神にしても、答えを持ってい
る人には問いはない。問う人には、(知らないのに問うので)
答えは絶対にでない。人が知るということは、考えては無理
なのかもしれません。脳という私たちとは別物が私たちに見
せてくれるとき、私たちは知るだけなのかもしれません。知っ
ていることは考えられるけど、知らないことは考えることもで
きない。
・・・そう考えると、神を考えている者は、実は、もう神を詳しく
知っているのかもしれません。また、問わない人は、神を知ら
ないのかもしれません。

 神は、「人が作る」と言うより、「出来てしまう」と表現した方
がいいようです。人なりのウンコがお尻からでるように。似て
いるようで似ていず、違っているようで違ってはいない神が
多数出現する。しかし、それは多数ではあるが、一つでもあ
る。
 「自分で作った」わけでもないのに、自分の中に崇高な神
が現れる。だから、「これは?なんだ?!!」となる。つまり、
人の心の中に神が生まれることも自然現象なのでしょう。
 その自然現象から生まれた神にすがる必要のある者は、
それを疑うことはできなくなり、信じる。すがるほどの事が周囲
にない者は、神の存在を疑う余裕もあり、神の存在に疑問を
持つ者となる。
全ては、人の自然現象への畏(おそ)れ、自然現象の理解能
力の小ささ、人間自身への過大評価、人間の孤独から生まれ
ていることのような気がします。

【神が人間を作ったのか?】

 最後に、「神は人間をつくったのか?」について考えてみます。
私は、「人間の中に生まれた神は、人間が自らを導く存在として
求めた結果、神がその脳に誕生した」と考えておりますので、そ
の存在(神)に導かれているのは当然で、その意味で、人間は
神によって作られたと言えるように思います。

【確かなこと】

 こう考えて、私に分かること、それは・・・、
「神について重要なことは、神の存在の有無などではなく、また、
信じる信じないではなく、さらにまた、どの神に従うか?でもなく、
神と人間とは切っても切れないものだ」ということです。そして、ま
た、私に分かることは、「神は、人間のウンコの様に、人ごとに違
いはあっても、さほどの違いはない」ということです。

                             ゲンゴロウ。。

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