[BlueSky: 586] Re:560 集団生物とことば


[From] GENNGOROU@aol.com [Date] Tue, 24 Aug 1999 06:20:37 EDT


須賀さん、教えていただきありがとうございます。

                       ゲンゴロウです。
(書きっぱなしの送信なので、乱文をお許しください)

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須賀さん(560)
> ゲンゴロウさんに複合生物の説明をしていただいて、お礼もいわねば、
> ご返事もださなければ、と思っているうちにすっかり時間がすぎてしま
> いました。ごめんなさい。後藤さんとのやりとりを拝見して、わたしに
> もずいぶんよくわかるようになりました。ありがとうございました。お
> 礼をかねて、下記の点に関連してわたしが考えたことを書いてみます。

なんか、自分で勝手に考えてことを、こう言っていただくと、
とても、ありがたいです、しかし、反面、恥ずかしいです。
このMLは環境を扱っているので、通常の環境問題を語らなければ
いけないなあと感じています。でも、どうしても、その根底に人間が
関係しているので、人間について知りたくなってしまいます。
また、ここまで人間という単一生物が環境にあふれていることを考えると、
人間にとっての最大の環境は、やはり、人間ではないかと考えてもしまい
ます。

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源 (343):
> > 人間は気が付かない内に集団性物化するのではないかと思うのです。

後藤さん(371):
> > ここは、昆虫学者の出番ですね。確か、超個体と呼んだのでしたか?

このMLに来るまで、ミツバチやアリが超個体と認識されていることすら、
知りませんでした。

須賀さん(560)
> ミツバチ、アリ、シロアリなどのコロニー(ひとつの巣のなかにいる
> 個体の集まり)を超個体(superorganism)といいます。これらの
> 昆虫では、女王(シロアリには王もいる)が個体だけでは生きていく
> ことも子育てをすることもできません。えさ集めや子育てはワーカー
> にまかせきりです。繁殖は、コロニーが分かれるというかたちで起こ
> ります。つまりコロニーが繁殖の単位(個体みたいなもの)になって
> います。こういうのを、超個体といいます。
> 人間の社会では、ここまで個体性が集団に埋没する状態にはなってい
> ません。平均的には、どの個体も自活してそれぞれ子どもを産んだり
> 子育てをしたりするようなからだのつくりになっており、外見からも
> 女王とワーカーに分かれている、というようなことはありません。
> ですから、人間の社会は超個体ではありません(定義の問題ですが)。

そうなんですかあ・・・・
教えて、いただき、本当に感謝しております。

今、読ませていただき、思ったことで申し訳ないのですが、、、
カンボジアでしたか、ポルポト政権の行っていた政策は、なんだか、
この集団コロニーの有効性を真似し、超個体を目指していたように
感じます。わたし自身は、あれを、超個体とは思いませんが。

それよりも、いま、このMLの中の他の話題である、幼児教育のように
今の日本の子育てを、組織集団に任せたがったり、オウムのような
集団に入る若者が増加していること、小中学生を卒業した学童が、高校
になって個性化を求めているにも関わらず、ルーズソックスのような
現象になってしまうことが、あるいは、組織から排除された人間が駅の
階段を駆け下り電車に飛び込むなどを聞き考えると、
私は、どうしても人間の集団生物(超個体)に結びつけてしまします。
人間は、自ら気がついていない集団生物化と個体であることの矛盾に
さいなまれているような気がしてなりません。

> ***(生物学に特に興味があるひとのための余談)***

私は、あります!

> Moritz & Southwick (1992)Bees as superorganisms.という本
> によると、1928年にWheelerがsuperorganismということばを使
> っているそうです。日本では今西錦司が『人間以前の社会』(1951)
> でこのことばをつかっており、日本の生物学者ならこちらでなじみの
> ある方のほうが多いかもしれません。欧米では60年代、70年代には
> このことばがあまりつかわれなかったそうですが、最近また復活して
> いるようです。個体レベルの淘汰とコロニーレベルの淘汰が拮抗して
> どのようにはたらくか、という複数レベル淘汰の問題とも関連して
> 興味がもたれているみたいです。

ああ、、これ、
私、「個の存続と種の存続」の相違について考えたことが
ありますので、興味があります。
このような考えがあることすら、知りませんでした。
大切な、お話。。です。。

> **************************************

> さて、以上は繁殖の単位という視点から人間の社会とアリなどの社会
> とのちがいを確認する話でした。ところが、ゲンゴロウさんのお話に
> は、もうひとつ別の興味深い論点がふくまれています。それは信号に
> よるコミュニケーションの問題です。ゲンゴロウさんの話の重心は、
> むしろこちらにあるのかもしれません。人間の社会とミツバチやアリ
> の社会の共通点として、伝達信号によってつながった個体群であるこ
> とをあげておられます。

あああ、、うれしい。そうなんです。。
私が集団生物(超個体)を考えたのは、脳の共有ということからです。

人間の意識について考えていたとき、
一人の人間の脳は、肉体によって、一つに束ねられている。
つまり、様々な可能性に気がついて、その可能性のどの方向にも人間が
進めたなら、人間の意識はたくさん生まれてしまうのではないかと思い
ました。しかし、そう考える脳が入っている体は、複数の場所に行けない。
もしかすると、精神は自由でも肉体が物質であることから、どうしても
ひとつの空間にしか存在できないので人間は個という個人になっている
だけで、もし、肉体と精神が離れられれば、一つの脳にいくつもの個人
が出現することは可能ではないかと思いました。

で、もし、そうだとするならば、今度は、たくさんの脳が一つの脳に
なってしまうこともあり得るのではないかなあと思いました。
で、その可能性があるかなあと考えましたが、
この「脳は肉体を通してのみ、個を確立する」ことを考えると、
たくさんの脳が一つの機能を持たない可能性のほうが多い
と考え、「容易に多くの人間の脳は一つの脳に束ねることができる」
と考え、つぎに
「そうなると、個々人の脳は集団生物の部品になるなあ」と
思いました。
物質として離れた空間に存在する「高度な脳」を結びつけるものは、
空気を媒体とする言葉しかないと思いました。。
で、そういえば、人間の意識が生まれたのも、言葉の進化が大きく
関係しているようだなあと感じました。
(言葉が粗末だと、意識も粗末になるのかもしれません(わたし))

> 人間社会の伝達信号については、Dawkinsの提唱したミームとか、
> 言霊、といった問題として、すでにこのメーリングリストでほかの
> 参加者のみなさんのあいだでもやりとりがかわされています。人間
> の場合、それらの主な媒体は、文字や音声、その他のシンボルです
> (視覚と聴覚が中心)。ことばがすべてではありませんが、ことば
> が中心的な役割を果たしています。一方アリなどの社会では、さま
> ざまな化学物質が大きな役割を果たしています(嗅覚が中心)。ア
> リのコミュニケーションについてもわからないことはまだまだある
> のですが、ここでは人間のコミュニケーションの媒体についてもう
> 少し考えてみましょう。

はい。お願いします。

> 言語が同じであれば、ひとは互いにコミュニケーションのシステム
> の非常に大きな部分を共有していることになります。しかし、ここ
> から、ゲンゴロウさんも心配されているように、人間が集団生物と
> してコントロールされる危険もうまれてきます。

はい。

言葉が意識を作り、そのことを意識体である人間が意識していないこと
から、その言葉自信に操られ、意識が変化し、そのことすら人間は気が
つかない。だから、人は、集団の中でその集団に発せられた言葉によっ
て、簡単に操作されてしまうのだと思います。。
人間の意識なんて、とてもたわいのない存在だと思ってしまうのです。

私の臆病な思考から、危惧をもっと言ってしまうと、
恐怖におびえた人間の「思考不可能」な単一脳は、他の脳に助けを求め
容易に脳の共有、同化を達成してしまうと、思うのです。

> 源さん(413):
> > 人間の共同作業は脳の相互同化能力の結果だと思ってしまいます。
> > 脳について、もう少し、妄想を。
> > スタジアムに集められた大群衆の脳は、拡声器によって、一つの脳の
> > 意思を一気に情報伝達できるという、他の記憶媒体にはない能力も
> > あるなあと思います。(プロパガンダや集団催眠のしくみ)

> この危険性が潜在的にはつねにあることを意識しつつ、わたしが希望
> を賭けてみたいと思うことのひとつは、ことばの世界ではほとんど無
> 限の組み合わせが可能だ、ということです。

多様性をどうするかということではなく、
多様性は「存在」するという、
多様性を生む「可能性とか、組み合わせ」は、ある、のだから、
否定することができない存在「ある」を認めないといけない
ということでしょうか。。

> 新しいことが可能だ、というところに注目したいのです。たとえばこ
> の青空MLが開設されて以来投稿されたメールの文章は(同じものを
> 再送信したものをのぞき)すべてちがっています。もちろん、意見と
> してほぼ同じだとひとまとめにできるものもあるでしょう。けれども
> その場合でも、相手の意見に同意するときのことばづかいやニュアン
> スはひとそれぞれなのです。これは考えてみればあたりまえのことで
> すが、わたしはこのあたりまえのことの豊かさにも、味わうべきもの、
> そこからくみとるべきものが何かあるような気がしています。

「ことばづかい」の問題は、本当にむずかしいです。
特にむずかしいと思うのは、
「でしょうか?」「ですか?」と聞かれると、
すぐに、非難されているように感じます。
その逆に、疑問を非難されているように取られているのではないかと
心配です。

> もちろん意見のあいだにはぶつかりあいもあります。いかに独創的な
> 意見だからといっても、容認したくない、と思うような意見もあるで
> しょう。そうした異なる意見のあいだには闘争がうまれ、より多くの
> ひとびとを説得できた方が社会に影響力をもつでしょう。しかしその
> ようにして合意が生じたようにみえる場合でも、そこには多様な表情
> が共存しうる余地があるのではないでしょうか。

まったく。。。同感です(私がちゃんと理解していればですが)

多くの人を説得できた主張が影響力を持つことが、大問題です。
だっって、それこそ、多くの人が納得するときに働くものは、
その主張の内容よりも、集団生物的な人間の性質が作用している
からと思うからです。

-------

私は、人間の集団生物化までしか考えられず、どうなってしまうのだろう
と、考えていただけでしたが、
須賀さんのおっしゃることで、先がまた見え始めました。

独創的な意見の存在を、認めなくてもいいから、「ある」という
ことだけでも、わかれば、人間は集団生物にならなくて、
すむかもしれません。
そういった意味で、いろいろな意見や考えに触れることは、
大切なことで、集団生物にならないで共存できる可能性も生まれると、
分かりました。

(解釈が少しでも、ちがっていたら、おっしゃってください)
*******************************************************
授業料を払わないといけなんじゃないだろうか。ゲンゴロウ





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