[BlueSky: 5682] Re:5678 個人と社会


[From] "genngorou" [Date] Fri, 23 Jan 2004 00:28:12 +0900



ゲンゴロウです。

須賀さん、こんばんは。おひさしぶりです。
読んでいただき、ありがとうございます。
コンピューターと自然が融合したジョーク、、にっこりでした。
ご苦労さまです。

以下、感想のような内容になりますが、私には、
とても気になる内容なので、返事を書きます。

> ゲンゴロウさん、荻野さん、そして葛貫さんのメールをよませていた
>だいていたら、社会と個人について思っていることを書いてみたくな
>りました。
> たとえば地球環境問題や平和のような「大きな」ことについてだれかが語る
> のをきくと、個人的で具体的なことが置き去りにされるように感じられること
> があります(わたしもその置き去りをしょっちゅうしていそうです)。このことは
> このメーリングリストでもくりかえし話題の水面下に(あるいは雪の下の煉瓦
> のすきまに?)みえかくれしつづけているようにわたしは感じています。そして
> このテーマは個人と集団、個人と組織といったテーマにかたちをかえてあら
> われることも多いようにみえます。

確かに、私自身のことを考えると、大きなテーマを語る時、
自分を含めた身の回りの個人的な出来事から、逃避して
いるような気持ちになります。
なので、大きなテーマを語る時に、そのテーマに酔わない
ようにしたいと、あえて考えています。
が、、、
平和や環境や人類や歴史や心や宇宙などに思いを馳せ
ると、それがたとえ、かなり現実的であっても、何か夢を見
ているような、そんな陶酔感があり、自己満足に陥っている
ような気がします。
その夢見心地を隠すように、できるだけ論理的に、科学的
なことを言いって、装うっている様な気さえします。

> さて、それでは、そうした(冬眠しているてんとう虫のように)個人的で具体的
> で「小さな」ことは、(組織・集団・国際社会・地球温暖化などといった)「大き
な」
> ことと、どこまでも対立しつづけるほかはないのでしょうか。あるいは、そうした
> 「大きな」ことにかかわる場合に、どのように考えれば「小さな」こととのあいだ
> にあるすきまを埋めることができるのでしょうか。

「大きなこと」「小さなこと」と言い換えられたことは、いいかも
しれません。あるいは、違っているのかもしれません。
この部分は、もう少し、説明を受けたい気がします。
が、、詳しく語らないから、何かを感じられるのかもしれません
ので、説明は、かえって不用なのかもしれません。
的確なのか、どうなのか、分かりませんが、「小さいこと」と
「大きなこと」、という表現を聞くと、ある新しい感じを持ちます。

> 簡単に答えを出せるテーマではなさそうですが、このテーマを個人と社会
> という土俵に置いてみるとき、環境教育・環境学習についての考え方の
> なかに、わたしにとってはひとつのヒントとして感じられる考え方があるのを
> 思い出します。

「個人と社会」という観点で、物事を考えることは、実は、
とても、とても大切な事ではないかと、今、改めて思って
います。
「どんなに、人間の個人レベルの程度を上げても、人間は
集団になると、それが、まったく役にたたない」という事が、
ほんとに多く、人間には起きているような気がしてなりませ
ん。例の、あの、共有地の悲劇なども、解決ができない。。

> “……環境問題の解決にとって、個人が育つことはもちろん重要なことで
> ある。しかし環境問題の解決は、個人と個人が協力しあえる社会的関係
> を集団が持つことによってはじめて可能になる。個人の能力育成も、個人
> が問題解決に寄与することができる集団的な仕組みがあってはじめて意味
> をもつ(陸、2001)。
>  集団としての問題解決力を高めるためには、集団を構成する個人の力を
> 高める必要がある。その際に、環境教育では、さまざまな個人の力の中で、
> 集団としての力にうまく寄与するような個人の力に特に注目する。”(出典1)

考えさせられる内容です。
「集団的な仕組みがあってはじめて意味をもつ」
などは、特に、重く感じます。
しかし、まだ、うまく表現が出来ていない様に思いました。
もちろん私には、もっと出来ませんが、身勝手なことですが
何か、歯がゆいです。もっと誰にでも分かる表現ができない
のか!と、そんな欲を感じるほどに、重要な内容であるな、
と思います。

> “欧米の社会においては、個人が個々の状況に応じて「環境に責任のある
> 行動」をとるということの中には、社会的な対立を乗り越えて合意を形成し、
> 対策を立てて問題を解決することまで含んでいるのかもしれない。しかし、
> 現在の日本においては、個人の責任に言及しただけでは、社会的な問題
> 解決までは含まれないのではないだろうか。”(出典2)

具体的に、ゴミ問題を例にすると、この話の内容は、
どういうことなのだろうか?と、詳しく知りたくなります。

> 実は、どちらもわたしの勤務先の同僚の環境学習担当者が書いた文章の
> 一部です。わたしは環境学習という分野でその専門の方々が論じておられる
> ことをよく知っているわけではありません。ですから、この文章に書かれて
> いることがどのくらい独創的な、あるいは逆に一般的な考え方なのかも
> わかりません。身内の文章を引用したので、宣伝と受け取られるかもしれま
> せんが、実際にはわたし自身がこの分野についてあまりくわしくなく、たまたま
> 身近なものが目にとまったというだけのことですので、他意はありません。

私には、貴重な内容です。
「個人の責任に言及しただけでは、社会的な問題解決までには至らない」
は、とても難しい問題の提起であると思います。
この方の、考えをもう少し、知り、この先には何があるのだろうかと、
読めたらいいなと思います。しかし、私には、また理解できないこと
かもしれませんので、あまり、積極的には求められません。。

> この文章の趣旨がわたしにとって新鮮なのは、個人と集団というものを単に
> 対立するだけのものとしてとらえるのではなく、集団に寄与する個人の力を
> 高めることによって社会の問題解決力を高めるというかたちで、両者をつなぐ
> すじみちを示そうとしている点にあります。

確かに、そうかもしれません。
対立させているだけでは、だめですね。
なぜなら、その両者が、事実、存在し、あるのですから・・・
なので、
集団の中で個人はどうなるのか?また、
個人によって集団はどう影響をうけるのか?
そういう仕組みも分からなければならない。
この、個人と集団の二つの織りなす事柄は、とてもとても
難しいような気がしてなりません。

> (出典)
> 1.陸 斉. 2001. 環境学習プログラム編みなおしのための提案. 長野県
>    自然保護研究所紀要. 4:1-10.
> 2.陸 斉. 2001. わが国の環境学習の現状と課題. 長野県自然保護研究
>    所紀要. 4, 別冊5:5-17.

                        ゲンゴロウ。。。

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