[BlueSky: 5636] Re:5631  支離滅裂


[From] "荻野 行雄" [Date] Sun, 4 Jan 2004 10:26:55 +0900

 阿部さん
『全ての人間が他者を害する事なく、また害される事も無く、
自由に考え、話し、行動でき、必要を満たされる状態』
>『定義」というからには、その内に前提を内包しているか、無制限の前提条
>件に耐えられるものでなくてはなりません。

 なるほど私の前回の投稿は、細部にとらわれて、
全体を見ていなかったようです。
 そして、driad さんの当初の指摘の意味を弱めてしまったようです。
申し訳ありませんでした。 以下その理由を述べます。


・「必要が満たされる状態」と 「足るを知る」について

   昨年末のテレビのニュースで、私と同年代の男性が
  生活保護を打ち切られて誰にも気付かれないまま
  餓死していたという事件を報道していました。
  母親が市役所を訴える準備をしているとの事でした。
  確か1年間に餓死する日本人が、50人ぐらいとか・・・
   私は、その餓死した様子の写真(ぼかされていた)が
  放映されるのを見て、それに手を合わせ涙があふれるのを
  感じながら、それでも、その人の心は平和だったかもしれないと
  思いました。

 阿部さんの定義では、そのような平和が切り捨てられてしまいます。
実際の社会では、「生存に必要な条件が満たされない状況」であっても
平和に生き、死んでいくことが、絶対にありえないと断言できないと思います。
 そのように死んでいった、いや、今生きている人に、その定義は失礼です。
 そのような人は、しかしその精神状態において、「必要を満たされ」
ていたのであろうと言うのであれば、「足るを知る」の方が明快・簡潔です。

>私の示した定義であれば『生存に必要な条件が満たされない状況』は
>存在し得ません
 これでは、現実世界の話ではありません。
つまり「人間が生きている状況下での平和」ではないでしょう。


・「たとえば恋人を恋敵に奪われた人に
 平和はやってくるでしょうか…」  という指摘について

 他人の恋人を奪う「自由」を認めれば、それによって
(どう乗り越えるか以前に)奪われた人は「害され」てしまう。
その後で感性がどうのといっても、その時点で「平和」ではない。
 「自由」な行動というのは「人を害してしまう」可能性がある。
潜在的には多分、生きている自由な行動は、必ず誰かを害してしまう。

 この指摘は端的に、「定義」の内容が対立し、矛盾しているが
それでいいのかということでしょう。


 「自由に考え、話し、行動でき」
これでは、身体的に話すことも、動くことも出来ない障害者に
「平和」はありえないことになってしまう。
どうしてそこを切り捨てられるのか。


 「平和」の定義など簡単です。
「人が、平和だと感じる状態」です。
したがってこれは単純に精神性の問題です。
その精神状態は、おそらく
「足るを知り、自分が納得して自分の自由を律する」状態です。

 「害」しないとかされないとか、経済・物資がどうのとかいうのは、
そのような精神状態に到達するのに、その方が具合がいいのではないかという
かなり怪しい希望的観測でしょう。


・ 「森林の思想」というのは、多分、
循環型の安定した社会を構築する方法論でしょう。
それと平和がどう関係あるかは、必ずしも明確ではありません。
そこを考えるには、その思想を分析する必要がある。
 勝手な想像ですが、「森林の思想」というのが、理念としては
「人間もまた森の生態系の一員として生きる」ということであるなら、
やはり人と、森の草・虫は同等の存在であるわけです。

>森林は平和でしょうか
>生き物たちは喰うか喰われるかの毎日で
>植物も場所を争っていたりするようですし…
 ここで指摘されているのは、「森林の思想」が実現した社会
の中であっても、必ずしも平和であるかどうか分からないではないか。
ということでしょう。どこが論点をはずしているのか私には分かりません。


 阿部さんが driad さんの指摘を的外れだと思うのは、
それは阿部さんの方に問題があると私は思います。
 さらにその「精神の収支」がどうのこうのという話がどうして出てくるのか。
私には阿部さんが鏡に映った自分に悪態をついているように思えます。
これは「惨状」でしょう??


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