[BlueSky: 5630] Re:5626 ちょっとまって阿部さん


[From] "荻野 行雄" [Date] Fri, 2 Jan 2004 23:38:09 +0900

 皆様、明けましておめでとうございます。
年男の荻野です。

 あのー、新年早々なんですが、
阿部さんとdriadさんのやり取り、
失礼ながら、支離滅裂なのは阿部さんの方ではないかと
私には思われます・・・
 一応理由を述べますと、


>>> 『全ての人間が他者を害する事なく、また害される事も無く、自由に考え、
>>>話し、行動でき、必要を満たされる状態』
>>
>> 「必要が満たされる状態」というよりはここでは
>> 「足るを知る」というのがいいんじゃないかと思われただけです
>
> 何語で考えたって、『必要』と言う場合には『何の為に』あるいは『どうす
>る為に』という条件で限定されています。その限定条件をどこに設定するかで、
>どこまで必要かは違う訳です(意識しているかどうかは別にして)。その限定
>条件を0に近づける為の哲学が、『足るを知る』です。が、生存に必要な条件
>が満たされない状況でそれを適用すれば、それを適用した人達は死ぬしかあり
>ません。他者の生存権を認めず、死者だけの世界で実現される平和を理想とす
>るのであれば、ここは『足るを知る』で良いのでしょうが、私は人間が生きて
>いる状況下での平和を考えているので、『必要が満たされる状態』としました。

 ここでは、「足るを知る」を否定するために、いきなり
「生存に必要な条件が満たされない状況で」という前提が
でてくる訳です。途中で勝手に前提条件を付け加えるというのは・・・

 「生存に必要な条件が満たされない状況で」あれば、
いくら「必要を満た」そうとしても、亡くなってしまうんじゃないのか知らん??
余計争いがはげしくなって、「平和」どころではないのでは・・
 生存に必要な条件が満たされていれば「足るを知る」で
なぜいけないのか分からない。
(そもそも、とりあえずは「足りている」からこその「足るを知る」でしょ)

 「限定条件をどこに設定するかで、どこまで必要かは違う訳です」
なぞといっていると、「> 人によっては際限がないわけで…」
 仕舞いには、地球環境が怪しくなって、「平和」どころではなくなるぞと
いうのが「環境問題」でしょうし。


 「他者の生存権を認めず、死者だけの世界で・・・」という発想が
どうもご自身が抜けているようで・・
何か、自分の生存権は当然認められるものと思っているのではないのか??
 自分自身が生きている意味を問うべきでしょう。
自分が生きるのに、どれだけの意味があるのか、
どれだけ資源と、エネルギーを消費することが許されるのか。
「身の程を知る」こと、その上での「必要」でなければ収拾がつかない。
 であれば結局「足るを知る」「生存に必要な条件を満たす」ということでしょう。



> 極相のシステムを生み出せるのは森林の思想、とは言いましたが、生み出さ
>れるであろうシステムが現実の森林と同様な過密競争型システムになる必然性
>は有りません。

 これだと、そもそも「森林の思想」という言葉が適切なのかどうかも
疑わしいわけです。
 そもそも、「火入れを必然とする砂漠の思想」とか
「森を森として利用する森林の思想」というものの内容がろくに説明されていない。

 しょうがないので、「思うに戦争は草原への火入れのようなものでしょう」
というところから、
   戦争で焼かれるのは→人・建物(人間社会)
   草原の火入れ〃   →草・虫
 であるので、草・虫を人間社会に喩えていると考えるのが普通でしょう。
 それだと、平和に喩えられていると思しき森の草・虫(つまり人間社会)は、
ほんとに平和なのかというのが、driadさんのつっこみな訳で、
すると、そんな喩えではないと言う。

 なるほど「森を森として利用する」という表現丸ごとが「平和」に対応
しているのであれば、森の草・虫は問題ではないわけですが、
それだと、喩えの提示のしかた自体にズレがあるわけで、
 そもそも説明は無い、喩えはズレている、
これで他人に理解しろというのだからもうメチャクチャ。
何を議論しているんだか私にはさっぱり・・


 「主観的条件に関する部分」なぞ、なぜ「人間には困難を乗り越える力」
があるのか、やはり説明なし。
と思ったら、「遺伝子に刻み込まれている筈です(乗り越えられなかった個体
は子孫を残せなかったでしょうから)」
 問題は、その「力」が、平和的なものかどうかということで、
歴史を見るまでも無く、現実社会を見れば、無理やり手篭めにするとか、
いきなり刺すとか、ちっとも平和的でないことは明白でしょう・・・
  
 普通、人は自分の痛みにも耐えかねて、
その「痛みをより少なく」しようと、相手に投げ返してしまう。
かくして憎悪が拡大するのではないかなあ。

 ま、復讐などというのは、「『敵』が受ける痛み」を事前に
推量り、その痛みを大きくすることを狙って行なわれているのでしょうから、
「自分の痛みとして感じる感性」は、
そもそも持っているということなのかも。

 問題は感性ではなくて、本当に理解するということ、
理解するためには、その何たるかを、考えるということ
なのではないのか。

 自分の痛みどころか、他人の痛みも引き受けて、
投げ返すことなく「耐える」という事になると、
それが出来る人なんて、「キリスト」並み、
つまり「悟りを開」かないと無理なのでは。



 阿部さんへ
あなたご自身でご自身の有り様を変えない限り、
あなたご自身の哀れな惨状は続く事でしょう。
残念ながら、この件に関してはあなた以外の誰も、
あなたを救うことはできません。

 あなたがご自身を直視し、自分の何たるかを考え
その有り様を変えられますように。


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| 荻野 行雄 ogino.yukio@nifty.com
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