[BlueSky: 5631] [5630] 支離滅裂?


[From] 阿部靖志 (ABE Yasushi) [Date] Sat, 03 Jan 2004 11:51:27 +0900

荻野 行雄さん、こんにちは。

阿部@春日です。

> >>> 『全ての人間が他者を害する事なく、また害される事も無く、自由に考え、
> >>>話し、行動でき、必要を満たされる状態』
> >>
> >> 「必要が満たされる状態」というよりはここでは
> >> 「足るを知る」というのがいいんじゃないかと思われただけです
> >
> > 何語で考えたって、『必要』と言う場合には『何の為に』あるいは『どうす
> >る為に』という条件で限定されています。その限定条件をどこに設定するかで、
> >どこまで必要かは違う訳です(意識しているかどうかは別にして)。その限定
> >条件を0に近づける為の哲学が、『足るを知る』です。が、生存に必要な条件
> >が満たされない状況でそれを適用すれば、それを適用した人達は死ぬしかあり
> >ません。他者の生存権を認めず、死者だけの世界で実現される平和を理想とす
> >るのであれば、ここは『足るを知る』で良いのでしょうが、私は人間が生きて
> >いる状況下での平和を考えているので、『必要が満たされる状態』としました。
>
>  ここでは、「足るを知る」を否定するために、いきなり
> 「生存に必要な条件が満たされない状況で」という前提が
> でてくる訳です。途中で勝手に前提条件を付け加えるというのは・・・

 『定義」というからには、その内に前提を内包しているか、無制限の前提条
件に耐えられるものでなくてはなりません。勝手に前提条件を付け加えたんで
はなく、対象としている多くの条件の内の一つを抜き出しただけです。どうし
ても『足るを知る』を入れたいのであれば、資源量に関しても言及する必要が
あります。それでは定義としては簡潔を欠く事になります。


>  「生存に必要な条件が満たされない状況で」あれば、
> いくら「必要を満た」そうとしても、亡くなってしまうんじゃないのか知らん??
> 余計争いがはげしくなって、「平和」どころではないのでは・・
>  生存に必要な条件が満たされていれば「足るを知る」で
> なぜいけないのか分からない。

 私の示した定義であれば『生存に必要な条件が満たされない状況』は存在し
得ませんが、『必要が満たされる』を『足るを知る』に変えてしまえば、前提
として存在する資源量の変域が0〜∞になってしまうので『生存に必要な条件
が満たされない状況』は発生し得ます。

> (そもそも、とりあえずは「足りている」からこその「足るを知る」でしょ)

 仏教思想の、執着を離れ寂滅に至る過程としての『足るを知る』である場合、
行き着く先は人々の死に絶えた世界です。『とりあえずは「足りている」から
こその「足るを知る」』という暗黙の了解は、常に成立している訳ではありま
せんよ。


>  「限定条件をどこに設定するかで、どこまで必要かは違う訳です」
> なぞといっていると、「> 人によっては際限がないわけで…」
>  仕舞いには、地球環境が怪しくなって、「平和」どころではなくなるぞと
> いうのが「環境問題」でしょうし。

 その通りです。だから有限なこの世界に生きる我々が『平和』を達成する為
には『足るを知る』ことが必要です。ただし、それは『平和』を達成する為に
必要な方法の一つであって、平和の定義に必要な訳ではない。


>  「他者の生存権を認めず、死者だけの世界で・・・」という発想が
> どうもご自身が抜けているようで・・
> 何か、自分の生存権は当然認められるものと思っているのではないのか??
>  自分自身が生きている意味を問うべきでしょう。
> 自分が生きるのに、どれだけの意味があるのか、
> どれだけ資源と、エネルギーを消費することが許されるのか。
> 「身の程を知る」こと、その上での「必要」でなければ収拾がつかない。
>  であれば結局「足るを知る」「生存に必要な条件を満たす」ということでしょう。

 『誰も生きていない状況なら平和が達成される』というのはdraiad さんが
展開した議論なんですが。


> > 極相のシステムを生み出せるのは森林の思想、とは言いましたが、生み出さ
> >れるであろうシステムが現実の森林と同様な過密競争型システムになる必然性
> >は有りません。
>
>  これだと、そもそも「森林の思想」という言葉が適切なのかどうかも
> 疑わしいわけです。
>  そもそも、「火入れを必然とする砂漠の思想」とか
> 「森を森として利用する森林の思想」というものの内容がろくに説明されていない。

 いや、こういう場所で議論している人には説明不要かと思いまして。あと、
私はそれに関して説明する適任者だとは思えないので、ご縁が有りましたら、
鈴木秀夫さんとか安田喜憲さんに伺ってみると宜しいんじゃないでしょうか。


>  しょうがないので、「思うに戦争は草原への火入れのようなものでしょう」
> というところから、
>    戦争で焼かれるのは→人・建物(人間社会)
>    草原の火入れ〃   →草・虫
>  であるので、草・虫を人間社会に喩えていると考えるのが普通でしょう。
>  それだと、平和に喩えられていると思しき森の草・虫(つまり人間社会)は、
> ほんとに平和なのかというのが、driadさんのつっこみな訳で、
> すると、そんな喩えではないと言う。

 『どうやって平和な世界を構築して行くのか?』という疑問への答として、
『こういう考え方を適用して行けば構築できるんじゃないか』と示したのが、
『森林の思想』なのです。だから『森林は平和か』と言う問いは著しく論点を
外した質問です。そして、そういう質問をして来る、という事は議論を積み上
げる気など無い、すなわち、おちゃらけた答をされても仕方がない、という事
でしょう。


>  なるほど「森を森として利用する」という表現丸ごとが「平和」に対応
> しているのであれば、森の草・虫は問題ではないわけですが、
> それだと、喩えの提示のしかた自体にズレがあるわけで、
>  そもそも説明は無い、喩えはズレている、
> これで他人に理解しろというのだからもうメチャクチャ。
> 何を議論しているんだか私にはさっぱり・・

 だから、この部分は、何も議論などしていなくって、単なる言葉遊びの部分
なんですってば。解る方が不思議ですよ。


>  「主観的条件に関する部分」なぞ、なぜ「人間には困難を乗り越える力」
> があるのか、やはり説明なし。

 私の人間への信頼感の表明ですから、説明不要な部分です。大体、困難を乗
り越えられなければ人間を辞めて屍に成るだけの話でしょうし。


> と思ったら、「遺伝子に刻み込まれている筈です(乗り越えられなかった個体
> は子孫を残せなかったでしょうから)」

 それ、別の答。


>  問題は、その「力」が、平和的なものかどうかということで、
> 歴史を見るまでも無く、現実社会を見れば、無理やり手篭めにするとか、
> いきなり刺すとか、ちっとも平和的でないことは明白でしょう・・・

 なるほど、お人好しの私には考えも及ばないような解決策ですねぇ。ところ
で、彼等はその困難を『平和的には乗り越えられなかった』のでしょうか?。
単に『平和的には乗り越えなかった』だけの様な気もしますが?。


>  普通、人は自分の痛みにも耐えかねて、
> その「痛みをより少なく」しようと、相手に投げ返してしまう。
> かくして憎悪が拡大するのではないかなあ。

 いや、もっと反射的なものでしょう。多分、それは、『その様な痛みを与え
る存在を放置すれば、もっと多くの人がその様な痛みにさらされるから、排除
せねばならない』という反応でしょう。社会的には『正義』と呼ばれる反応で
すね。


>  阿部さんへ
> あなたご自身でご自身の有り様を変えない限り、
> あなたご自身の哀れな惨状は続く事でしょう。
> 残念ながら、この件に関してはあなた以外の誰も、
> あなたを救うことはできません。
>
>  あなたがご自身を直視し、自分の何たるかを考え
> その有り様を変えられますように。

 私の、どのような惨状ですか?。私は認識していないので、教えて欲しいの
ですが。



それではまた。 阿部 靖志(abe_yasushi@yahoo.co.jp)

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