[BlueSky: 560] 集団生物とことば Re:343, 371,413


[From] suka@nacri.pref.nagano.jp (SUKA, Takeshi) [Date] Mon, 23 Aug 1999 18:46:08 +0900

ゲンゴロウさん、後藤さん、中澤さん みなさん
                    須賀です。

ゲンゴロウさんに複合生物の説明をしていただいて、お礼もいわねば、
ご返事もださなければ、と思っているうちにすっかり時間がすぎてしま
いました。ごめんなさい。後藤さんとのやりとりを拝見して、わたしに
もずいぶんよくわかるようになりました。ありがとうございました。お
礼をかねて、下記の点に関連してわたしが考えたことを書いてみます。

源さん(343):
>   視覚的に一固体であると生物を定義することを,疑ってみま
> すとアリや蜜蜂は一つの生物として扱って良いように思えました。
> ある信号でつながっている個体群を集団生物として扱ってみました。
> 人間社会がある規律ないしは,伝達信号で統一されると,人間は
> 気が付かない内に集団性物化するのではないかと思うのです。

後藤さん(371):
> ここは、昆虫学者の出番ですね。確か、超個体と呼んだのでしたか?

ミツバチ、アリ、シロアリなどのコロニー(ひとつの巣のなかにいる
個体の集まり)を超個体(superorganism)といいます。これらの
昆虫では、女王(シロアリには王もいる)が個体だけでは生きていく
ことも子育てをすることもできません。えさ集めや子育てはワーカー
にまかせきりです。繁殖は、コロニーが分かれるというかたちで起こ
ります。つまりコロニーが繁殖の単位(個体みたいなもの)になって
います。こういうのを、超個体といいます。

人間の社会では、ここまで個体性が集団に埋没する状態にはなってい
ません。平均的には、どの個体も自活してそれぞれ子どもを産んだり
子育てをしたりするようなからだのつくりになっており、外見からも
女王とワーカーに分かれている、というようなことはありません。
ですから、人間の社会は超個体ではありません(定義の問題ですが)。

***(生物学に特に興味があるひとのための余談)***
Moritz & Southwick (1992)Bees as superorganisms.という本
によると、1928年にWheelerがsuperorganismということばを使
っているそうです。日本では今西錦司が『人間以前の社会』(1951)
でこのことばをつかっており、日本の生物学者ならこちらでなじみの
ある方のほうが多いかもしれません。欧米では60年代、70年代には
このことばがあまりつかわれなかったそうですが、最近また復活して
いるようです。個体レベルの淘汰とコロニーレベルの淘汰が拮抗して
どのようにはたらくか、という複数レベル淘汰の問題とも関連して
興味がもたれているみたいです。
**************************************

さて、以上は繁殖の単位という視点から人間の社会とアリなどの社会
とのちがいを確認する話でした。ところが、ゲンゴロウさんのお話に
は、もうひとつ別の興味深い論点がふくまれています。それは信号に
よるコミュニケーションの問題です。ゲンゴロウさんの話の重心は、
むしろこちらにあるのかもしれません。人間の社会とミツバチやアリ
の社会の共通点として、伝達信号によってつながった個体群であるこ
とをあげておられます。

人間社会の伝達信号については、Dawkinsの提唱したミームとか、
言霊、といった問題として、すでにこのメーリングリストでほかの
参加者のみなさんのあいだでもやりとりがかわされています。人間
の場合、それらの主な媒体は、文字や音声、その他のシンボルです
(視覚と聴覚が中心)。ことばがすべてではありませんが、ことば
が中心的な役割を果たしています。一方アリなどの社会では、さま
ざまな化学物質が大きな役割を果たしています(嗅覚が中心)。ア
リのコミュニケーションについてもわからないことはまだまだある
のですが、ここでは人間のコミュニケーションの媒体についてもう
少し考えてみましょう。

言語が同じであれば、ひとは互いにコミュニケーションのシステム
の非常に大きな部分を共有していることになります。しかし、ここ
から、ゲンゴロウさんも心配されているように、人間が集団生物と
してコントロールされる危険もうまれてきます。

源さん(413):
> 人間の共同作業は脳の相互同化能力の結果だと思ってしまいます。
>
> 脳について、もう少し、妄想を。
> スタジアムに集められた大群衆の脳は、拡声器によって、一つの脳の
> 意思を一気に情報伝達できるという、他の記憶媒体にはない能力も
> あるなあと思います。(プロパガンダや集団催眠のしくみ)

この危険性が潜在的にはつねにあることを意識しつつ、わたしが希望
を賭けてみたいと思うことのひとつは、ことばの世界ではほとんど無
限の組み合わせが可能だ、ということです。今わたしの机のうえにの
っている小さな英和辞典には92000の見出し語がのっているそうです
が、これらをくみあわせて長い文や文章、さらにエッセイや論文や本
などを書けば、そのバリエーションは無限になるはずです。これはこ
とばでは何でも表現できるということとはちがいます(5月の信州の
山の斜面で光をあびてきらめいている無数の新緑の樹々の色合いやか
たちやそよぎ具合をことばですべて描写できるとは思えません)。ま
た、ことばでは組み合わせに制限がいっさいない、という意味でもあ
りません(文法があります)。けれどもその制約の範囲内でもつねに
新しいことが可能だ、というところに注目したいのです。たとえばこ
の青空MLが開設されて以来投稿されたメールの文章は(同じものを
再送信したものをのぞき)すべてちがっています。もちろん、意見と
してほぼ同じだとひとまとめにできるものもあるでしょう。けれども
その場合でも、相手の意見に同意するときのことばづかいやニュアン
スはひとそれぞれなのです。これは考えてみればあたりまえのことで
すが、わたしはこのあたりまえのことの豊かさにも、味わうべきもの、
そこからくみとるべきものが何かあるような気がしています。

もちろん意見のあいだにはぶつかりあいもあります。いかに独創的な
意見だからといっても、容認したくない、と思うような意見もあるで
しょう。そうした異なる意見のあいだには闘争がうまれ、より多くの
ひとびとを説得できた方が社会に影響力をもつでしょう。しかしその
ようにして合意が生じたようにみえる場合でも、そこには多様な表情
が共存しうる余地があるのではないでしょうか。

これは、中澤さんが[474]でだされたグローバルな環境倫理は可能か
(容認しうるか)という問題提起にもいずれ関連してくる問題だと思
います。これについては、また何か考えがわいたら書いてみたいと思
います。


Takeshi SUKA
Nagano Nature Conservation Research Institute (NACRI)
E-mail: suka@nacri.pref.nagano.jp



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