[BlueSky: 5533] Re.5524  私たちは群盲なのか? Re:5514


[From] "ゲンゴロウ" [Date] Tue, 11 Nov 2003 01:05:07 +0900

ゲンゴロウです。

ゲンゴロウ:
> > MLは、人の頭の中をじっくりと見ることができる現場なの
> > かもしれません。人の頭の中の事柄が現実世界に大きく影響
> > してると考えるならば、多くの人の脳の中を見ることは、と
> > ても大切で、そこに一体、何が渦巻いているのか、それを見
> > る場としてMLは、うってつけかもしれません。

須賀さん:
> ゲンゴロウさんのこのご意見、なるほど、と感じる部分がある
> 反面、ちょっとわたしの感じ方とはちがうなあ、と思うところも
> あります。
> わたしがMLでのやりとりでたびたび感じるのは、自分の頭の
> 中のことをことばでつたえるのがいかにむずかしいか、という
> ことです。
> どんなにことばをえらんで表現したつもりでも、どこかに落とし穴
> があることが多いですし、逆に、ことばにしようとすることで、
> 頭のなかの考えが成長することもあります。
> 一番むずかしいのは、表現したことではなく、表現していないこと
> について、いろいろな誤解をまねかないようにすることです。
> これについては、どうすればいいのか、いまだによくわかりません。
> どうしたらいいのでしょうね。

私も須賀さんと同じように感じることが多いです。それだから、
あえて、「多くの人の脳の中を知ることは大切だ。MLは人の
頭の中をじっくりと見ることができるうってつけの現場」と考
えるようにしているのかもしれません。
ただ、おっしゃるように、違った考えとか異論などがある以前
に変なことが起きているのではないか?と思うことがあります。
いや、私にとっては、その変なことを探すのが私の課題でもあ
るので、須賀さんのおっしゃることは、私への戒めなのかもし
れません。
 私は、いつも別な話を始めてしまっている様です。話が発展
するのはいいことですが、あまり違った観点に立って話をする
と、せっかくのよい話が、拡散して台無しになる場合が多いか
もしれません。申し訳ありません。

お詫びはお詫びとして、せっかくなので、「表現したことでは
なく表現していないことへの指摘」ということについて考えさ
せて下さい。前々から、このことについては考えたかったので。


【私たちは群盲なのか?】

 私もMLでのやりとりなどで、考え方の違い以前に困ったと
思うことがあります。それは、全てを網羅できない中で、言え
なかった点への指摘があり、その指摘によって、肝心なことが
消されてしまうことです。情けなくなる時があります。

何かが起きているような気がしてなりません。推測ですが、
「考え方の違い」と「伝えられない事による部分否定が、全否
定になってしまう」ということには、何かしら共通点のような
ものがあるような気がします。(この問題自体が、まだアヤフ
ヤだが、とにかく考えてみる。)

 抽象的な言い方になってしまいますが、その様なことは、
「群盲、象を撫でる」のようなことから起きてしまっているの
ではないかと思います。

 目の見えない人々が大きな象を撫で、手に触れた部分をそれ
ぞれが表現すれば、それは「違い」になって現れますし、ある
人が触った部分のことを言っているときに、他の部分を触って
いる人が、「そうじゃない」ということも起きます。
 さらに、象という目に見える象ではなく、語られる際の対象
のように「見えない像」である場合には語るほどに誤解が生ま
れてしまうというようなことも起きます。
 私なんか、いつもそれに陥っていると思います。気がつくと、
勝手に別な観点で相手の話を壊してしまっている。。で、あと
で、「あ〜、あの話、いい話だったのに、邪魔するんじゃなか
った」と、思うことが多いです。

−−−

 私たちは、自分たちが、自分一人では触りきれないほどに大
きなものを触っているのは確かな様です。また、私たちは、も
うそれに気がつきつつあるのも確かな様です。さらに物事は、
どのように触るかでも違いが生まれることも私たちは知ってい
る様です。しかし、「一人では触りきれない物事を触っている」
ということを忘れがちな為に、群盲になっているのも、確かな
様です。

 どの様に触っているかを説明できないでいるので、触り方で
違っていることも忘れてしまいます。こんなことから、不本意
にも、私たちの間には、誤解や違いがどんどんと生まれてしま
っている。そんなことが私たちに起きているのかもしれません。

私たちは、本当に、群盲なのでしょうか。。思うに、この「群
盲、象を撫でる」という格言自体にも別な触りどころがあるよ
うな気がします。皮肉なことです。

 実は、私たちは群盲ではなく、役割分担として様々なものの
捉え方が出来る生き物なのかもしれません。その能力のおかげ
で私たちは生き延びてきたのかもしれません。皆、人と違った
ところを触りたがるという習性、つまり「集団的な能力」が私
たちに備わっているのかもしれません。

 こう考えると、私たちは決して「目が見えない生物」ではな
く、それぞれが、さまざまな目を持っていると言え、それは優
れた能力であるようです。
 しかし、その集団的な能力が、いつも論争などを起こしてし
まいます。私たちを、争う群盲としてしまうのは、自分達に様
々なものを見る複眼が集団に備わっていることを知らないから、
起きてしまうのかもしれません。

 ある生物を見るとき、個体の習性も重要ですが、集団的に活
動する生物の場合には、集団的習性も捉えなければいかないの
は確かなことです。私たちに、もしも集団としての能力として、
「人の見たこと意外のものを見たがる習性」が備わっているな
らば、そのことを知らないことこそが、私たちを群盲にしてし
まうような気がしてきます。
つまり、
 様々な見解があることは、集団的な能力であり、人類という
生物を、ここまで生き延びさせた優れた能力なのかもしれませ
ん。しかし個としての私たちは、この「集団的な能力(皆、違
ったことを見たがる聞きたがる言いたがる)」で苦しんでしま
っているということも起きているのかもしれません。

 私たちは「群盲、象を撫でる」で言われているような「群盲」
ではなく、大きなものを皆で触って、それを発信しているのか
もしれません。そのことを知らないで、自分の論を押し通した
り、他者の発信する意見を異論と考えるのは、「盲人」である
ということになるのかもしれません。
 私たちは、大きなものを触っているから、必死に情報交換す
る様になったのかもしれません。

                    ゲンゴロウ。。。
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