葛貫です。
ゲンゴロウさんwrote:
> 言葉が新たな概念の発見を生み、その概念が言葉
> を作り、さまざまな物事を出現させているので、欠けている
> というよりは、言葉がある限り、その前には、無限に物事は
> 出現するということなので、欠けているように見えてしまう
> のではないか?!と思ったりします。
> > 「……いまから一時(いっとき)ほどまえに、わたしはこれから
> > いかなる馬が現れるのか、あらゆる想定をめぐられていた。
> > ただし、それはわたしの知性が豊かだったからではなく、むしろ
> > わたしの直観が貧しかったからなのだ。そして修道僧たちが轡
> > (くつわ)をつかんで連れてきた、あの個体としての馬をみたとき
> > に、やっとわたしの知性の渇きは癒された。あのとき初めて、
> > それまでの推理が、わたし自身を真理の近くへ導いてくれた
> > ことを悟ったのだ。こうしてみると、まだ見たこともない一頭の
> > 馬を想像するために、わたしが最初にもちいた観念は、単なる
> > 記号にすぎなかった。ちょうど雪の上の足跡が、馬という概念
> > の記号であったように。そして記号や記号の記号を用いるのは、
> > わたしたちにとってまだ事物が欠けているときにかぎられるのだ」
この一節が、どういう文脈の中で語られたのかわからないのですが、
これを読んだ時、禅の「十牛図」を思い出しました。
馬じゃなくて、牛の話なのですけれどね(^^;。
十牛図については、
http://search.goo.ne.jp/web.jsp?MT=%BD%BD%B5%ED%BF%DE&from=dict
に、何種類か解説されているサイトが載っていました。
# 適切な説明できるほどわかっていないので、これでお赦しを。
ウィリアム修道士が↑で述べているのは、「1.尋牛」、「2.見跡」、
「3.見牛」の段階の話で、修道院では「4.得牛」のために苦闘し
ている人が多いのだろうなと思いました。
西洋の修道院では「5.牧牛」で「あがり」で、第6図以降は思い付
かないかも。
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