葛貫さん みなさん
須賀です。
葛貫さん:
> この一節が、どういう文脈の中で語られたのかわからないのですが、
> これを読んだ時、禅の「十牛図」を思い出しました。
> 馬じゃなくて、牛の話なのですけれどね(^^;。
> ウィリアム修道士が↑で述べているのは、「1.尋牛」、「2.見跡」、
> 「3.見牛」の段階の話で、修道院では「4.得牛」のために苦闘し
> ている人が多いのだろうなと思いました。
> 西洋の修道院では「5.牧牛」で「あがり」で、第6図以降は思い付
> かないかも。
ええと、こまったな。わたしも『薔薇の名前』をちょっとしかよんで
いないので、まちがったことを言ってしまうかもしれませんが、
ちょっと「十牛図」の話とは文脈がずれているのではないかと
思います。
ご紹介いただいたサイトの説明を拝見したかぎりでは、「十牛図」
は「自己」のあり方について考えることが出発点になっていますね。
ウィリアム修道士は、ここでは、「自己」ではなく、ことばや事物に
ついての考えをのべているだけなのです。
「自己」についても考えているかもしれませんが、それについては
引用した部分では何も語っていないように思います。
中途半端な説明で混乱をまねいてしまってごめんなさい。
須賀 丈
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