[BlueSky: 5377] メルマガ虫虫・・・人と環境(科学優越思考批判・科学万能主義批判)


[From] "ゲンゴロウ" [Date] Sun, 21 Sep 2003 02:04:39 +0900


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   人と環境
  (科学優越思考批判・科学万能主義批判)
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 今さらだが、「人と環境との関係」が気になる。「環境」
とは人にとって、どういうものなのだろうか?

 辞書によると「環境とは、人間その他の生物をとりまき、
それに何らかの影響を与えるものとしての外界」とある。こ
れを手がかりに、私なりに考えてみたい。

 人にとっての環境は、辞書にも書いてあるように、人をとり
まき、直接的にも間接的にも、人に影響を与えるもの全て一切
合切の「もの」のことだろう。一切合切を少し具体的に、しか
も勝手に分類してしまうなら、環境には自然環境としての生物
環境や物質環境があり、また人の作った人工環境もあり、そし
て人をとりまいている「人が作る人間環境」などがあるだろう
か。

 しかし、なんだか、こんな区分けでは、まったく駄目だとい
う感じがして、分かることも分からなくなる様な、何かを見逃
している様な、そんな気分さえ生まれてくる。


【影響を考えると二つの存在が見える】

 環境を考えるとき、今までの私は環境を作っている物(大地、
大気、海など)それ自体に着眼して「環境」を考えていた。し
かし、辞書に「環境とは他に影響を与えるもの」と書いてある
ことを参考にして、「影響」という事柄を考慮に入れて考えて
みると、「影響を受けている存在」というものが脳裏に出現す
る。予感だが、どうやら「環境」というものを考える際には、
「影響」ということを、ことさらに意識しなければ、「影響を
与える側の存在(大気、水、土壌など)」しか見えて来ず、
「影響を受ける側の存在(人間など)」が見えず、その結果、
それら二つの相互関係もが見えなくなってしまうようだ。そう
言えば私は以前「物の存在(性質)は他物との影響の仕方、つ
まり反応による!」などということを考えたことがあった。ど
うも、その考え方と似たことが、この「環境」の捉え方にも起
きるようだ。

          
【対身体環境と対精神環境】

 「影響」ということを考えると、「影響を与える側」と「影
響を受ける側」という二つの存在が出現してきた。と同時に、
そのどちらか一方の側からの捉え方では、片手落ちであり、間
違った考え方を人に生じさせかねないようである。

 私の感じた予感に従って、「環境を考えるときには、影響と
いう要素を考慮せずには考えられないぞ!」と強いて思い、考
えてみると、環境分類について、私たちの外界である環境それ
自体からではなく、「影響を受ける側」の方向から見えてくる。
 この様な観点で、環境が人間に影響を与える時、環境は人間
の何に影響を与えるかを考えてみたい。(人に限定して考えた
理由は下記※3)

 たとえば、ビルというのは、その物の性質(高い、硬い)で
考えるならば物質的な環境だが、人に影響を与える「デザイン」
とか「機能」を考えるなら、ビルは精神的な影響を人に与える
環境でもある。このように、「環境」というものの区分を、そ
のものの有り様ではなく、受け手(人間)にどの様な影響を与
えているかで区分すると、人間に関して言えば、「精神面に影
響を与える環境」と「人間の肉体に影響を与える環境」の二つ
の存在が見えてくる。これは、当然、人間という存在が「身体
的存在」であり、なお且つ、「精神的存在」であるので、人間
側から環境を見ると、そうなるのだろう。

 人間の精神面に影響を与える環境を「対精神環境」と呼び、
また、人間の肉体に影響を与える環境を「対身体環境」と呼び
区別して、私がこれまで考えていた外的な環境分類から感じる
ものとは別の感覚を味わってみたい。


【対身体環境と対精神環境の関係は?】

 どうやら、「対精神環境」と「対身体環境」とは、先に例に
したビルの様に、その物自体の中に重複してあるようだ。例え
ば鯨(クジラ)という生物にも、対人間的な存在として、「対
精神環境」と「対身体環境」という二つの存在が内包され、そ
の二つの存在が出現し、私たちがクジラの存在を考える場合に、
何かを私たちに感じさせてくれるかもしれない。あるいは森林
とか野山という環境についても、「対精神環境」と「対身体環
境」という二つの側面が見え、その結果、何かが分かってくる
かもしれない。

 さらに、「対精神環境」と「対身体環境」を考える場合、そ
れらが格別に存在しているのではなく、相互に関係し合ってい
るということも考えなければならないようだ。たとえばの例で、
人は、人の精神や心に心地良い影響を与える対精神環境ならば、
対身体環境上よろしくない物も受け入れるのではないかという
ことが見えてくる(麻薬、酒など)。そして、人間の対身体環
境が悪化している背景には、この対精神環境を追い求める方向
性が強く働いているようにも感じてくる。(刺激物の増加)
 もしかすると対身体環境と対精神環境には、相反する関係が
あり、対身体環境を改善しようとすると、対精神環境は悪化す
るような相互関係があるかもしれない。そんなことも分かって
きそうだ。(その他の例は下記※1にて。)


【対人間環境として見た温度】

 「対精神環境」と「対身体環境」という観点で、「温度」と
いうものを考えてみたい。
 人間の肉体が耐えられない高温度とか低温の環境は、もちろ
ん「対身体環境」だが、暑い、寒いという体感温度の環境は、
健康な人に限っては、ある意味「対精神環境」でもあるのでは
ないだろうか。
この温度という対人間の環境性から商品というものを考えてみ
ると、防火服は対身体環境商品だが、エアコンとか扇風機は、
風鈴のような「対精神環境的な要素」も内包している商品と言
えるような気がしてくる。


【対人間環境として見た文明の利器】

 少し脱線して、旅客機、貨物飛行機、貨物自動車、自家用車
などは対精神環境・対身体環境という考え方をするとどうなる
だろうか。
これらは、これなくしては経済競争に勝てないので、強いて言
うなら経済的な環境物と言えるかもしれない。それからすると、
人にとっての経済とは、他国すなわち人間の周囲で最も人間に
影響力を持つ「人間環境」というものに抗するのに必要なもの
なので、輸送手段などの機械類は、対身体的な環境物と言える
かもしれない。

 インターネットは、どうだろうか。インターネットはITの
中心であり、やはり経済環境物であるので対身体環境であるか
もしれないが、一方では、人間独特の知識欲や自己発現欲をか
なえる道具でもあるので、対精神環境であるかもしれない。

 さらに、未だ誕生していないアトム型ロボットなどが未来社
会に誕生したなら、どのような環境を人間に作り出すのかも、
対身体環境・対精神環境という対人間環境に着眼すると見えて
くるかもしれない。(この予測は手塚治虫先生に任せよう。。)

 この様に、環境の人への影響を考えて、対人間環境(対精神
環境・対身体環境)という観点で環境について考えてみると、
私達の周囲の存在物を考える場合、外的環境自体を単独で見て
しまったのでは、身体的な視点だけを追うような一元的な見方
が生まれ、環境というものの片面しか見えないということが分
かって来る。(言い換えれば、環境を考えるときに、身体的な
影響しか見えて来ない場合には、環境を物体・物質としか見て
いないということになる。)


【対人間環境としてみた商品】

 つづいて、対人間環境(対精神・対身体環境)という観点で
「商品」という経済物を見てみたい。

 例えば、マイナスイオンを発生するエアコンが今、世にある。
この商品、科学的には「まゆつば物」と言われているらしいが、
現実には売れている。
 この商品は、実用性ということから、どうも機械としての側
面から「インチキ」だと見えてしまうが、「対人間環境(対精
神環境と対身体環境)」という観点から眺めてみると、この商
品という物も、「対身体環境と対精神環境」という両面を持っ
た物であるような気がしてくる。
 仮に、もしも、この商品がインチキ、すなわち、マイナス・
イオンと銘打たれていても実際にはマイナスイオンなど出なか
ったり、あるいは、マイナスイオンなるものが出ても、そのマ
イナスイオン自体の効果がないということであれば、それらが
売れているということは、買う消費者が騙(だま)されている
ことになる。
 しかし、はたして、対人間環境という見方と考え方で、この
商品を眺めると、マイナスイオンを信じている人達には、その
エアコンのSwitchを入れるとき、そして、それから出る風を浴
びるときに、喜びがあることなども分かってくる。
 信じると喜びが生まれる商品。。それは安易にインチキ商品
とは呼べないような気がしてくる。と言うより、人に良い精神
環境を与える商品、あるいは、ウソでも一時、現実を忘れさせ
てくれるようなことができる商品というものは、それが出来な
い商品よりは優れた商品とも言えてしまうかもしれない。そし
て、さらに言ってしまえば、対身体的に優れた商品でも、対精
神環境が伴わない商品こそが、インチキ商品であるとも言えて
しまうのではないだろうか。

 人間は肉体に依存しているだけではなく、外界から精神的に
も影響を強く受け、ある意味、その精神(こころ)に依存して
生きている。そこに着眼すると、易・占い、宗教、メルヘン童
話、小説、葬式、結婚式などという非科学的な物事のほうが、
科学よりも人を救っているかもしれないということも見えてき
たりしないだろうか。また、自動車、電気製品などが、ただ頑
健で正確に動くだけでなく、それに付加された「まやかし」の
ようなものこそが、人の苦しみや悲しみを救っていることも見
えてくるのではないだろうか。エアコンで言うところのマイナ
ス・イオンというものが付加された商品の様に、「対身体環境」
的な性質だけではなく「対精神的」な性質を持った商品は、人
間という生き物にとっては、デザインなどと似た「対精神環境」
的に優れた物であり、それだからこそ商品として存在している
のかもしれない。


【対人間環境としてみた諸科学】

 医学が、延命価値という限界に近づいた今日、あるいは、
空調によるコンディションが温度維持という限られた範囲とい
う限界があるが故に満たされてしまっている社会では、人は、
可能性からの範囲が大きい、限界のない「対精神環境」を追い
求め始めるのかもしれない。これこそが、人間に対しての科学
の限界かもしれない。
 と言うより、科学の本質を考えると、科学さえも、その根に
は人間の探求心という精神的な側面があり、その意味では科学
も、実は「対精神環境物」であり、その結果に生み出されたも
のとも言えなくもないのではなかろうか。(科学が万能に見え
る原因については、下記の※2)
 つまり、先にあげたマイナスイオンなるものがインチキで、
それが付加された商品を買う消費者が愚かと言うなら、実は
何もかもがインチキで、それを求める全ての人間こそがアホ
だ!ということになってしまうような気がする。

 しかし、人間は、それほどにはアホではないだろう。そこで、
もしも人間がアホでないと仮定するなら、その人間がアホに見
える原因は、人間がアホに見えるほどに見る人間がアホだから
なのではないだろうか。

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                      ゲンゴロウ



−−−※1 対身体環境と対精神環境の関係−−−

 「対身体環境」よりも「対精神環境」が劣って見えるとい
うことについて考えてみると、その原因には可能性の問題が
関係しているのではないかと思えてくる。対肉体環境という
「人の体に影響を及ぼす環境」に対して、良い環境を追い求
めるには、ある限界がある。なぜなら、人間の肉体は不変で
あり、その結果、肉体に良い影響を与える環境というものも
可能な様で、ある限界があるように思えてくる。「対肉体環
境」に対しては、良く変化させるよりも一定のものが望まれ
たり、変化よりも維持が望まれるような気がする。
 しかし、心とか精神というものに影響を与える対精神環境
は、良い環境にも、悪い環境にも無限に変化できる可能性が
あるようで、ここに、対精神環境が対身体環境よりも、安易
に変化を求められるようになり、軽んじられることが起きた
り、対精神環境の変化速度が増したりすることが起きるよう
な気がする。

−−−※2 科学の優越性という思いこみ−−−

 科学が優れたものに見えるのは、つじつまを求めたときに、
つじつまがあうからであり、つじつまが合うということを好み、
つじつまが合わないことが苦手な人間独特の性質から生まれた、
「つじつまが合うことこそが満点だ」などという、それこそ宗
教的な産物だと私は考える。
 これは学問というある普遍性、ないしは、共有とか、統一を
求めた分野の発展に伴う弊害と言えるかもしれない。もしも、
仮に、科学が対象としている自然界の姿が、つじつまが合わな
いなら、つじつまが合わないことを理解することが科学的な理
解として望まれるだろう。また、人の心のような人それぞれに
発達するようなものは望まれなくなる。この様な物事に対した
時こそ、「つじつまが合うものごとこそ正しい」ということが、
実にやっかいな観念になるだろう。
 経済科学でも、一時、人間の精神的な性格を軽んじた、実に
つじつまのあった社会主義思考というものがあった。理想的な
論理で出来たその論理が、現実の前に崩壊してしまったのは、
なぜなのだろうか。
 このように考えると、自然科学という分野は、きわめて自然
という単独の存在に限定している学問であることが分かる。な
ので、もしも、自然科学者が「環境」という、他の存在と関わ
りを持っている分野にまで思考を広げようとするなら、まず、
自然科学の脳の領域を出なければ、とんでもない判断をし始め
るような気がする。
       (科学批判ではなく科学優越思考批判として)

−−−※3 人に限定して考えた理由−−−−

 環境は、人の為にあるわけではないが、今回はあえて人を中心
に考えてみた。ただ、全環境を考えるなら、人にとって良い環境
というのが、実は、巡りめぐって他のものにとっても良い環境と
も言えるようなので、その意味では人間中心に環境を考えてみて
も許されるような気がする。とにかく、今回は、複雑さを避ける
ために、人を対象にした環境に限定して考えてみた。
 その結果、人間を取り巻く環境を、そのもの自体の性質で区分
する方法と、もう一つ、影響を受ける側からの区分けの方法とが
あることが分かり、後者の様に、人間に与える影響を考えると、
これまでとは、かなり見方が違ってきたようだ。

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ゲンゴロウ
           gengorou5656@yahoo.co.jp
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/gengorou/index.htm
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/gengorou/book/ningen.htm
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