こんにちは、葛貫です。
driadさん wrote:
> たいていのアンケートなるものは
> 型通りに問うことによって問われる側を型に嵌める効果しか持たず
> さらには型通りに問われることによって
> 合格回答できる自分に安心しそこに固定化することになるわけですね
これ↑、本当にそうですね。
アンケートの設問や、限られた選択肢をみながら、アンケートをつ
くった側の意図を、あれこれ想像するのは面白いです。
> 優れた問いというのは
> その思ってもみなかったことを問われることによって
> それが意識されついには問われる側が変化するわけですが
問いを発した側も、思いもよらないこたえをオミットしないで、
自身が変化して行く柔軟性がないと、ひとりよがりになってしまい
そうですね。
> ファッション的な食行動には
> 結構金を掛けてるんじゃないでしょうか…
> 夢しか無いんですね
> 現実生活が無いんです
光瀬龍さんの作品をを萩尾望都さんがコミック化した「百億の昼と
千億の夜」(秋田書店)の中に出てきた「ゼン・ゼン・シティ」や、
新井素子さんの「チグリスとユーフラテス」(集英社、 集英社文庫)
を思い出しました。
> まとまった量を買い付けておいて
> 毎日の量に小分けする努力というのが実は
> 相当な情報処理能力を必要とする
> ということが明らかにされただけですね
> 難しくなったんじゃなくて担い手の能力が下がったんです
学校では、そういうことを教えてくれず、実地訓練あるのみ、
という感じなのかな。
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世界の凡ての部分が互いに各種の関係で結ばれることになったため
に、我々は我々の心には入りきれないほど多くの人間のことを絶え
ず思っていなければならない。・・・現代の伝達の方法がいろいろな
問題を我々に課して、それは人間の体力が堪え得る量を越えている。
・・・中略・・・
私たちはそのことで、何かの形で妥協することになる。私たちは多
数の人間の一人々々に就いて考える訳にはいかないから、時にはこ
れを多数という名の下に、一つの抽象として扱おうとする。また現
在の複雑な状態に手を焼いて、これを飛び越え、未来のもっと簡単
な夢に生きる。そして私たちの周囲にある私たち自身の問題を解決
することができないので、私たちがいる場所から離れた所で起って
いる世界の問題に就いて論じ合う。
・・・中略・・・
考えてみると、現代生活で実際に損害を被っているのは前に挙げた
三つの中心、自分が現にいる場所と、現在と、それから個人という
ものとその他の人間との関係ではないだろうか。未来への競争で現
在は脇に押しやられ、自分から離れた場所のことが取り上げられて、
自分が現にいる場所は無視され、個人は多数によって圧倒されてい
る。
・・・中略・・・
女は家庭という一つの狭い範囲で、その家庭をなしている一人々々
に認められる独自のものを、また、今という時間の自然の姿を、
また、ここという場所の掛け替えのなさを決して忘れたことがない。
そしてこれが生活の基本であり、そしてまたもっと大きな、多数と
か、未来とか、世界とかいうものを作っている要素なのである。
我々はそれを無視することはできても、それなしではすまされない。
(「海からの贈物」リンドバーグ夫人 著、新潮文庫 より)
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この本が書かれたのが1950年代なので、最後の節にある「女は」の
くだりは今の感覚とはズレていて、女性だけが担う役割ではないと
思うのですが・・・。
坂本さんの【5373】を読んで思ったのですが、
「家庭という一つの狭い範囲で、その家庭をなしている一人々々に
認められる独自のものを、また、今という時間の自然の姿を、また、
ここという場所の掛け替えのなさ」を守るために心や時間を使うこ
とは、自己中ではなく生活の基本だと思うのですが、例えば、母親、
父親のどちらかでも、子供と食事を一緒にとれるようにフレキシブ
ルな就業形態にしてほしいというようなことは、公の場では、言い
にくい雰囲気があるような気がします。
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