こんにちは、葛貫です。
『「私」はなぜ存在するか』という本に、
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多田富雄さん:
自然というものの考え方が、(中国と)日本とはずいぶん違いま
すね。西洋と日本の自然の考え方も違いますし。西洋だと自然と
いうのは自然のルールですから、法則です。自然のルールに従っ
ていさえすれば、アーティフィシャルでも、それは自然なんです
ね。日本ではあるがまま、ということになりますね。むしろルー
ルに合っていないのが自然。中国ではあるがままでもないし、自
然のルールでもない。おそらく人間のルールなんでしょうね。
(P.109−110)
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という一節がありました。
「自然」という言葉にこめられているニュアンスも文化圏によって、
ずいぶん違うんですね。
今、日本で「自然」という言葉は、どういうニュアンスで使われる
ことが多いのでしょう。
その少しあとに、
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養老孟司さん:
日本は宋学を入れるんですけれど、それを徂徠の時から、いわば
自発的に切るんです。人為と自然を区別する。二宮尊徳が全く同
じなんですね。家を建てて、それを放っておくと、雨もりがして
きて塀は崩れ、草ぼうぼうになる。それを彼は天道というのです。
それを直して一所懸命維持するのは人道。だからやかましくうる
さく世話を焼かないと立たないのが人道だというわけです。
(P.110)
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と、続いていました。
自然(森林)の再生力が西欧に比べて強かった日本では、ごく近年
まで、人間の生活は自然に束縛されており、侵入してくる自然との
せめぎ合いの中で生活を立ててきた。でも、今では、人口や技術力
とのバランスで、自然の再生力を圧倒してしまったんですね。
打ち捨てられた住居の跡や農地等をみると、開発される前の植生と
は異なるかもしれませんが、隙あらば入り込み、繁る植物の力って
凄いなと思います。
小学校から「サルにであったときは・・・」なんていう注意書を子供
がもらってきた時は、何か笑っちゃったけれど、偶然、行きあった
サルの群に、その場に居合わせたヒトの数より多くの個体がいて、
木の枝を揺すって威嚇されたときは、本当に恐かったです。
自分の身体能力をものすごく増強させる機器に囲まれ、外界に対し
て余裕のある対応をしている人と、食うか食われるかのところにい
る人の自然に対する思い、保全や保護に対する感じ方は、ずいぶん
違うだろうなと思いました。
須賀さんwrote:
> 宇宙人がやってきて、地球にある一番美しい音楽をサンプリング
> したいといいます。音楽ファンがいろいろなジャンルのレコード
> をもちだして、これはどうだ、いやこっちはどうだ、と推薦します。
> けれども、宇宙人は首を横にふりつづけます。結局、宇宙人が
> 選んだのは、さえずる一羽の鳥でした。(くわしい展開はわすれ
> ましたが、概略としてこんな話でした。)
どういうものを「美」とするかも、育ってきた環境というか文化に
よって作られる部分もあるのでしょうね。書き手の美意識がうかが
えるお話だな、と思いながら読みました。
そういうフィルターを通すいとまもなく、直接、魂(心身?)に響
いてしまうような「美」との遭遇、一度してみたいものです(^^)。
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