[BlueSky: 5228] Re . 5226 . Re:5225  「蜘蛛の糸」を読んで


[From] "gengorou" [Date] Sun, 20 Jul 2003 23:06:10 +0900


葛貫さんの書かれた文章、ゆっくり読めるときに、
読みたかったので、とても返事が遅れました。。
すみません。

葛貫さん:
> 年譜を見ると、芥川が生後七ヶ月の時、実母が発狂し、彼は母の
> 実家に引き取られています。
>
> 「発狂」とは、善悪の基準とか、基準を作る価値観とか、あるいは
> それらから生まれる固定観念等が云々されるところから感情や理性
> が遊離し帰ってこれなくなった状態とも言えるでしょうか?

なんか、目から鱗がとれる思いで、これを読みました。
つまり、こういうこと↓をおっしゃっているのですよね。

「人は、善悪の基準とか、基準を作る価値観とか、あるいは、
 それらから生まれる固定観念などを取り去ると、感情や理性
 なども持つことができないのではないか」と。。。

これを、理解すると、人間とは、が見えてくる気がします。
人間って、なにかしら、自分なりの、固定観念を持たないと
やっていけない生き物のような気がしました。
度々、人間が問題を起こすのは、固定観念を持っているため
ではなく、他者にも自分と同じように「ある固定観念」が、
あることを理解しないことのようです。
 私など、固定観念を持つことが悪いことのように思って
しまってました。固定観念とか、価値観とか、人なりの考え方の
基準は、誰でも持っているし、あるのが当然なので、それを
知ることに、まず勤めなければならないと思いました。

> 外界からの刺激をインプットし、それを自分の中で処理し、外界へ
> フィードバックする過程の何処かにcommon senseの許容量を著しく
> 逸脱させてしまう「何か」がある、ということになるのかな。

常識というのが、いったい何になるのか。。。
換えって、常識こそが、各自の固定観念を抹殺し、
人の自律の道を妨害してしまっているのではないでしょうか。
などと、今、瞬間に思いました。が、どうなんでしょうか。。

> 身近にそういう人がいた彼は、自分の中にもその「何か」が潜んで
> いるのではないかと、自身をチェックし続けずにはいられなかった
> のでは、と思います。
>
> 「藪の中」という作品等を読むと、衝撃的な事件の後、証言者はそ
> れぞれ、どれもが本人が、自分の今迄の記憶や経験から作り上げて
> 来た判断回路に基づき、それが「真実」だと思い込んでいる事件の
> 経緯を話している。(自覚して嘘をついているんだとしたら、つま
> らない話になっちゃう)。

この「藪の中」、もうよく思い出せませんが、
読んだとき、「あ〜、人って・・・」と衝撃を感じたような気がします。

> 記憶や自分の内にある判断の回路のようなものを、芥川は信用して
> いなかったんじゃないかな。
> 適切な例えかどうかわかりませんが、人が井戸を掘る時は、自分
> を養える水脈にあたれば、そこで井戸を掘るのをやめて、日常の生
> 活に戻る。でも、芥川は、水脈に辿り着いたら、その水脈を支える
> 堅固な底(絶対的な真実みたいなもの?)を探さずにはいられなく
> なった。それで、水に潜りはじめたのだけれど、ああこれだと、
> 安心できる底に行き着くことができなかった。そんな気がします。

たとえ話をありがとうございました。
おかげで、とてもよく分かりました。
・・・なんだか、切りがないということでは、
私のことを言われているようです。。

> 「当たり前の人間である」という自信を持っていた武者小路は、水
> 脈やその底を探検することより、井戸から湧き出た水で、何かを育
> てることに自分の時間や気力を使ったということになるでしょうか。

う〜む。。なるほど。。です。

> 武者小路の作品は、砂糖いっぱいのエネルギー源、ほどよく酸味が
> きいていて、シュワッと泡もたったりして、すっと清涼感を与えて
> くれるラムネのようだな、芥川の作品は、グラスに入れ体温で暖め、
> その香を楽しみながら味わうブランデーのようだなと思います。

そうなのですか。。。

> > > 自分を切り刻むようにして書かれた芥川の作品も、この蓮が放つ
> > > 香のようなものなのかもしれませんね。
> > > お釈迦さまは、この香を嘉してくれたでしょうか。

> > もしかすると、「僕の持つてゐるのは神経だけである」と
> > 言った芥川が、蓮だったということ?ですか。
> >      (そうだったのかぁ〜。。。)

> 根を降ろせる確かな地盤を必死に探している自分も、いずれ蓮の肥
> やしさ、と思っていたんじゃないかと、私は思います。
> 説明不能な自分が朽ち果て、分解されてできた分子は、もはや自分
> ではない。「自分」は消えてしまう。

そうなのですか、、。
芥川が、客観的に捉えていたのは、お釈迦様、カンダタだけでなく、
自分も含めていたのですね。。。
そこまで自分を他者のごとく。。。
・・・自分の命を絶てる人は、そうなのでしょうか。。
そういえば、
この人↓、よくは知りませんが、
三島由紀夫も、なんか、そんなような人だったような。。。
同じように自害しましたっけ。。

> もと自分であった物が蓮を通して醸し出した香の中に「自分」を感
> じくれる存在がいてほしいと切望があったから「蜘蛛の糸」という
> 物語にお釈迦さまを登場させたんじゃないかな。

なんだか、とてもよくわかったのですが、
また、すこし、よく分からなくなってきました。。
芥川龍之介のお話は、やはり、かなり難しいですね。。

> 柳田邦男さんの「言葉の力、生きる力」という本の中に、
>
>  月夜の浜辺
>
>  月夜の晩に、ボタンが一つ
>  波打際に、落ちてゐた。
>
>  それを拾つて、役立てようと
>  僕は思つたわけでもないが
>  なぜだかそれを捨てるに忍びず
>  僕はそれを、袂(たもと)に入れた。
>
>  月夜の晩に、ボタンが一つ
>  波打際に、落ちてゐた。
>
>  それを拾つて、役立てようと
>  僕は思つたわけでもないが
>     月に向つてそれは抛(はふ)れず
>     浪に向つてそれは抛れず
>  僕はそれを、袂に入れた。
>
>  月夜の晩に、拾つたボタンは
>  指先に沁(し)み、心に沁みた。
>
>  月夜の晩に、拾つたボタンは
>  どうしてそれが、捨てられようか?
>
> と中原中也が月夜の浜辺で拾ったボタンを捨てられなかったように、
> いろいろなことがあった「自分」を、そっと拾い上げ、「肯々」と
> 袂に入れてくれる、そんな存在がいてくれると思った方が生きやす
> い、というか、避けられない自分の消滅を受け入れ易いんじゃない
> かな、というようなこと(うろ覚えですみません)が、書いてあっ
> たな、と思い出しました。

なるほど。。自分をもって、自分をすくい上げる(救う)。。
そういうことも、、人はやっているのですね。。
なるほど。。。

いろいろとありがとうございました。
なんだか、葛貫さんにお話をしていただき、
かなり、さざまなことが解決できた感じです。

−−−−−
固定観念とか、自分で自分を・・・などの話で、
ちょっと、前々から考えていた「神」について、
私なりに考えたことがありますので、投稿してしまいます。

今、ブルースカイは、ちょっと暇なので、いいかな?と
甘えながら、出させていただきます。

                 ゲンゴロウ。。







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