[BlueSky: 5226] Re:5225  「蜘蛛の糸」を読んで


[From] "Y.kuzunuki" [Date] Wed, 16 Jul 2003 12:29:15 +0900

こんにちは、葛貫です。

ゲンゴロウさんwrote:
> 「僕はどういう良心も持たない。」とは、はたして、、
> どういうことなのでしょうか。気になります。

これは、自殺する年に書いた「歯車」の中の一節です。

> そして、何か、自分を被験者にしてでも、「人間は固定
> 観念をはずすと、どうなるか?」などという実験を、小
> 説の中だけでなく、実生活でもしていたのでしょうか。。

年譜を見ると、芥川が生後七ヶ月の時、実母が発狂し、彼は母の
実家に引き取られています。

「発狂」とは、善悪の基準とか、基準を作る価値観とか、あるいは
それらから生まれる固定観念等が云々されるところから感情や理性
が遊離し帰ってこれなくなった状態とも言えるでしょうか?

外界からの刺激をインプットし、それを自分の中で処理し、外界へ
フィードバックする過程の何処かにcommon senseの許容量を著しく
逸脱させてしまう「何か」がある、ということになるのかな。

身近にそういう人がいた彼は、自分の中にもその「何か」が潜んで
いるのではないかと、自身をチェックし続けずにはいられなかった
のでは、と思います。

「藪の中」という作品等を読むと、衝撃的な事件の後、証言者はそ
れぞれ、どれもが本人が、自分の今迄の記憶や経験から作り上げて
来た判断回路に基づき、それが「真実」だと思い込んでいる事件の
経緯を話している。(自覚して嘘をついているんだとしたら、つま
らない話になっちゃう)。

記憶や自分の内にある判断の回路のようなものを、芥川は信用して
いなかったんじゃないかな。

適切な例えかどうかわかりませんが、人が井戸を掘る時は、自分
を養える水脈にあたれば、そこで井戸を掘るのをやめて、日常の生
活に戻る。でも、芥川は、水脈に辿り着いたら、その水脈を支える
堅固な底(絶対的な真実みたいなもの?)を探さずにはいられなく
なった。それで、水に潜りはじめたのだけれど、ああこれだと、
安心できる底に行き着くことができなかった。そんな気がします。

「当たり前の人間である」という自信を持っていた武者小路は、水
脈やその底を探検することより、井戸から湧き出た水で、何かを育
てることに自分の時間や気力を使ったということになるでしょうか。

武者小路の作品は、砂糖いっぱいのエネルギー源、ほどよく酸味が
きいていて、シュワッと泡もたったりして、すっと清涼感を与えて
くれるラムネのようだな、芥川の作品は、グラスに入れ体温で暖め、
その香を楽しみながら味わうブランデーのようだなと思います。


> > 自分を切り刻むようにして書かれた芥川の作品も、この蓮が放つ
> > 香のようなものなのかもしれませんね。
> > お釈迦さまは、この香を嘉してくれたでしょうか。
>
> もしかすると、「僕の持つてゐるのは神経だけである」と
> 言った芥川が、蓮だったということ?ですか。
>      (そうだったのかぁ〜。。。)

根を降ろせる確かな地盤を必死に探している自分も、いずれ蓮の肥
やしさ、と思っていたんじゃないかと、私は思います。

説明不能な自分が朽ち果て、分解されてできた分子は、もはや自分
ではない。「自分」は消えてしまう。

もと自分であった物が蓮を通して醸し出した香の中に「自分」を感
じくれる存在がいてほしいと切望があったから「蜘蛛の糸」という
物語にお釈迦さまを登場させたんじゃないかな。

柳田邦男さんの「言葉の力、生きる力」という本の中に、

 月夜の浜辺

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちてゐた。

 それを拾つて、役立てようと
 僕は思つたわけでもないが
 なぜだかそれを捨てるに忍びず
 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちてゐた。

 それを拾つて、役立てようと
 僕は思つたわけでもないが
    月に向つてそれは抛(はふ)れず
    浪に向つてそれは抛れず
 僕はそれを、袂に入れた。

 月夜の晩に、拾つたボタンは
 指先に沁(し)み、心に沁みた。

 月夜の晩に、拾つたボタンは
 どうしてそれが、捨てられようか?

と中原中也が月夜の浜辺で拾ったボタンを捨てられなかったように、
いろいろなことがあった「自分」を、そっと拾い上げ、「肯々」と
袂に入れてくれる、そんな存在がいてくれると思った方が生きやす
い、というか、避けられない自分の消滅を受け入れ易いんじゃない
かな、というようなこと(うろ覚えですみません)が、書いてあっ
たな、と思い出しました。

一昨日息子の学校に行ったら、池に白い水蓮の花が咲いていました。
不忍池の蓮も、もうそろそろ桃色の花を咲かせる頃でしょうか。
昨日は新暦の盂蘭盆だったんですね。

「共有地の悲劇」から外れた雑談を長々としてしまいました(^^;。

では。


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