[BlueSky: 4314] Re:4306 心的生物を食糧にしても差し支えないか?  Re 。IWC


[From] "gengorou" [Date] Fri, 31 May 2002 20:11:09 +0900


田中さん、ゲンゴロウです。

【田中さん】
> クジラは給食で食べたきりなので、実際はどうだか解りませんが、
> 牛や豚の場合、食べると悲しみが判ってしまうから、
> 私は肉が嫌いです。(また自分の話で恐縮です)

そういうことですか。

> 「感じる」だけでなく具合が悪くなるときもあります。

感じることで、具合が悪くなるのは比較的、
女性(的)に多いようです。。。
(実は、そのようなタイプを女性と呼んでいるのかも・・・)

> 幸せだった肉は、とても美味しく食べられます。

養豚場が近くにあるのですが、狭い中で食べては寝るだけの
そのブタを見て、私にはけっこう幸せそうにしているように
思えます。(私、ナマケ者だから・・・)

> でもそんなの、日本では滅多にお目にかかれません。
> (またアホなこと言ってるよ、と聞こえてきそうですね・・・)

いいえ、いいません。。
もしかすると、人間が最終的に到達したい場所は、
田中さんが今いる様な場所なのかもしれません。
その場所、大切にしてください。
そして、その場所にいない人も大切にして上げて下さい。

> > 率直に言わせていただくと・・その意味だと、、
> > どうも、「肉が美味しいかまずいか?」の話しに
> > なってしまうように、私には感じてしまいます。。。。
>
> 美味しいかまずいかというのは、単に舌が感じる味覚だけではなく、
> その奥に感じる由来、背景、そういうものも全部含めて
> 美味しく幸せに食べられるか、ということだと私は思っています。

なるほど。。。
でも、それって、実は、美食家ということかも
しれませんね。とても贅沢な。この地球では人間が
激減しないと味わえないかもしれません。

> だから、幸せに生きていた鯨は美味しいだろうし、
> 食べたいと思うのかな、と思いました。
> 私は食べたくありませんけど。

なるほどぉ(ここで、なぜか笑ってしまいました(^^))
大海を自由に泳ぐ鯨は美味しそうですか。。なるほどね。
それが、生き物として自然なのかもしれませんね。
そういうことか。。。

> > 私の話は、「ゴチソウ様」ではなくて、その前の
> > 「いただきます」をするかしないかの話をしている
> > ような気がするのですが・・・。
> >            (違っているかなぁ・・・)
>
> 私は「ゴチソウ様」をするための「いただきます」
> の話だと思っているのですが・・・ズレてますか?

どうなんでしょうか。。

> 必要なものを必要なだけ「いただきます」して、
> 無駄にならないように「ゴチソウ様」する。
> それが他の命に対する礼儀だろうと。

そうしてください。

> そう考えた時、鯨が今の日本の食生活に真に必要なのか?
> イワシだって必要以上に捕っているなら、減らさないといけない。
> そう思いました。

そうですね。。食べ物としては、そのように考え始めますね。

> ゲンゴロウさんのお考えは、「心的存在を殺して食べる」
> という行為から人間が「悲しみを感じる」、
> または鯨の悲しみをテレパシーのようなもので人間が感じ取る、
> ということだと読み取れますが、私の間違いでしょうか。

テレパシーは違います。
私、それほど心を感じる人間ではないほうなので、
テレパシーなどは感じません。もしも私が感じていると自分で
思ったら、それは「思い込み」になるでしょう。

> 私の考えはそれとはちょっと違っていて、「心」は「体」に影響し、
> 切り刻まれて食肉になってもまだ消えずに残っている、と思います。
> もちろん、それを食べて感じる人は僅かかもしれませんが、
> 感じないなら問題ない、といえるのかどうかはわかりません。

私は、感じませんので、「そうなんだぁ〜」と
思うだけですね。そういう敏感な「こころ」を持つと、
今の世の中では、とても大変だなぁ〜と思います。

> 心的生物を食べるかどうかも気にかけるべきだと思いますが、
> 心的か否かの線引きをどうやってするのかよく解らないし、
> 「一つの生命」と考えれば、鯨もイワシも牛も野菜も人間も
> みんな対等です。

それは、人間がそう考えなくても、自然とはもともとその
ようです。ただし、
この「対等」「平等」「同じ」という概念にも、実は
「基準」があるようなのです。なので、田中さんがおっやる
表現としては、「基準がないから比較できない」という
ほうが妥当かもしれません。

すこし、このことについて考えてみます。
「基準」がない、つまりルールがないというような
ことは、実は、弱肉強食(弱存強滅)で、人間の世
で言えば「戦乱の世」と同じで、乱れてしまうので
はないでしょうか。。。
ルールがない混乱の中で人が暮らすには、人には恐
怖が生まれ、やがて、人を束ねる思想家が求められ
る。。その繰り返しが、人間の歴史のような気がし
ます。
今の日本などは、ある強いルールに守られているの
で、そのルールの重要性が忘れられていますが、実
は、「基準がない」中での「対等」だという意識は、
ルールを必要としない考え方でもあると知らなけれ
ばならないと私は思います。
どうでしょうか?ご自分を観察して、そういう既存
のルールに反発するような想いが多分にあるのでは
ないでしょうか?(違っていたらスミマセン。)

私としては、別に、ある人間がクジラを食べても、
他の人間が平気ならば、何も言いません。

> 私は、魚も植物も、みんな心が通じるような気がしています。
> 魚や植物が「心」を持っているか?はよくわかりませんが、
> 体内の水が心を記憶し、伝えるのかもしれません。
> 一連の議論の発端になった『水は答えを知っている』を
> 読んで、そう思いました。(全くの想像で発言しています)

私には、まったくと言っていいほどにその感覚がありません。
しかし、事実は、このような感覚を持つ方、最近、私の前に
多く現れます。なので、今、何が起きているのだろう?と、
気にしています。

このMLで語る話ではない内容だと思いますが、ついでに
言ってしまうと・・・
こころ(感覚)というのは、研ぎ澄ませば研ぎ澄ます
ほどに、敏感になる感覚だと思います。他者には感じ
ないものも感じるようになる。感じない人、つまり
「こころ」を研ぎ澄まさない人からそれを見ると、、
「幻想」だということにもなりかねない。。しかし、
突き詰めると、確実に存在していると私たちが思って
いる「物体」も実は、そんな「物としての私たち」が
感じている存在だと私は思っています。
で、人間の存在そのものも、実は、人間の集団意識幻想
(集団認識、集団了解)の結果に存在している。。

もともと科学が頼りにしている数学、これにも実は、
人間ならではの「数」という概念があり、人間が、
「全てが繋がっている全体」を、視覚的な観念で勝手に
部分として切り離して、「数の概念」を持ちだしたもの
なので、ある意味「人間ならではの幻想」だと、私は思
っています。「数」は人間が作った「この世界を理解す
る道具」。。科学者はその道具を使っているので、その
道具の氏素性は知らない。。
田中さんの感性は、その元に近いものを見ているように
思います。     (持論の披露は終わり)

> 捕鯨については、海の中の個体数を正確に把握できるのか?
> という疑問があるので、増えすぎて害が出るという説も
> 素直に信じられないし、
> 食文化を守りたいという意見はわかるけど
> 私自身は馴染みがない文化だし、
> 結局、鯨を捕りたい人は売りたい人なんじゃないの?
> という気がするので、賛成はできません。
> どうしても必要なら、必要最低限だけ捕ればいいと思います。

「必要なら必要最低限だけ」が、「いい」と思いました。
それが、誰にでも納得できる答えなのかもしれません。

ゲンゴロウ
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