[BlueSky: 4166] Re:4163 感性と理性


[From] "Y.Kuzunuki" [Date] Thu, 16 May 2002 16:01:14 +0900

左巻さん、返信、ありがとうございます、葛貫です。

左巻健男さんwrote:
>  ぼくは,「理」というものが,いわゆる豊かな感性なしに存在
> していると考えるのが間違いだと思います。

はい。そう思います(^^)。
でも、悲しい哉、「理」を基盤にして対話しようと努める人は、
世間一般から、豊かな感性の持ち主とは思われていないという
印象があるのですが(^^;。

またまた、引用で申し訳ないのですが、昨日、見た
「おとなの小論文教室」の「見えない衣」というコラムに
http://1101.com/essay/index.html

******
・・・前略
これ、進むと、「データを観て、患者を見ない」
医療に似たことが起こるんです。

お医者さんが、たくさんの検査データをじっとにらんだまま、
「大丈夫、どこも悪くありませんよ」と言う。
そしたら、患者さんが、
「先生、こっちを向いてください」
お医者さんがふりむくと、患者の顔は、真っ青だった。

後略・・・
*******

という一節がありました。

「理」で対話しようとしている人は、実際はそうではなくても、
機器測定の値、データは見るけれど、全体を見て、実態を感じ
とってくれない人のように、思われてしまっているのでは、と
思うんです。

今迄、「理」で、「効率」とか「便利さ」のようなものを
すくいだして、それを証明するデータを集めて「ほらほら(^^)」
と提示し、「うんうん(^^)」と乗ってきたのだけれど、取り
こぼされている質的な要素がヒシヒシと感じられるようになって
きているという過去の実績(?)がある。

これは「理」に問題があるのではなくて、すくいだし方に問題が
あったのですが、「理」がでてくると、「その手には乗らない。
どうせ、「私」という存在の全体的な心地好さにつながる話じゃ
ないし、「理」として表現する力を養ってきていない、こちらの
言い分をきいてくれることはないんだから。」という感じで話を
きいているふりして意識を他所へとばしてしまうのではないかな、
と思われます。

「私」という存在の全体的な心地好さを求める気持ちと「理」
に対する不信や「理」的な表現力の不足の隙間に、怪し系の
商売が入り込むのかもしれませんね。

このギャップを埋めるため、機器データを解析するだけではなく、
感じる力を養い、それを「理」のかたちで表現し対話する術を身に
つけさせるために、左巻さんたちが「理科教育」に取り組んで
下さっているのだと思うのですが、その意図が理解されているか
どうか、心許ないです(^^;。

頑張って下さいm(_ _)m。




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