[BlueSky: 3791] 雑書き


[From] "akira matsuda" [Date] Sat, 10 Nov 2001 05:15:01 +0900

皆様こんにちは,京都市の松田です.

今日書かせて頂いたのは独立した雑談です.自分の生き方をどう考えたらいいのだろ
う?という個人的な迷いです.よろしかったらおつきあいください.話の種になるよ
うなものとは思っていませんが,もしも批判などいただければ幸いに思います.

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1●考える生き方,考えない生き方

田中さんのお言葉で,「考えない生き方をすることも個人の自由で,主体的に考えな
い生き方を選択した人たちは,本人がそのような生き方を選択したと捉えることもで
きる」という言葉がありました.

すると考える生き方を選択した人との間の役割分担が出来るということになります.
主体的に考えない人たちが考えなくても,無駄や矛盾を減らす方向で自然に社会が回
るように仕向けることが考える人間の役割ということになるのだろうか.

考える,考えないではどちらが偉い,ということをここで問題にするつもりはありま
せん.どちらを選ぶも自由とすれば.

2●守りとゆとり

先日,新聞の読者欄で,地方から東京に出てきたある青年が都会の人たちのせわしな
さ,大人のゆとりのなさ,他者を顧みようとしない様子にショックを受けたという話
をしていました.いわく「大人になるとみんなゆとりがなくなったり,楽をしようと
して守りに入ったりするのでしょうか,自分は大人になるのが怖い.」ということで
した.

雰囲気全体を変えることを考えるとしてもそれが果たして良いことか判断できないと
思います.守りに入ることが楽をするほうに流れるという意味であれば,それはどう
しようもない気がします.このことに関しては,他人はそうしているけれども人は
人,自分はどうするかが大事だという個人的な問題になってしまうかも知れません.
あるいはそうなるまいとする一部の人すらそうさせてしまうのは社会全体が問題なの
か?

また,ゆとりがないことは守りに入ることとは別の問題だと思いました.目標があっ

他を削ってでも何かをやらなければならないとか,生活に追われる中でどうしてもゆ
とりはなくなると思います.いつもみんなと仲良くして笑っていられればそれに越し
たことはない.しかし仕事には責任が伴う.責任がかかればまじめにやらなければい
けない.普段笑顔も見せずたんたんと働く,しかし時に笑える一瞬がある,そのとき
のために働くということも世の中にはあるのではないか.

また都会の人はゆとりがないように見えるとしても,それは都会の負の側面として一
義的に決められることでもないでしょう.情報やモノの集中,スピード感によってい
るとすれば,逆にそれらから恩恵を受ける場合もあるでしょう.

3●組織のheterogeneity

真剣に仕事をしている人にゆとりがないのは当たり前にも思います.それでも笑える
かどうか,も問われると思いますが,仕事に優先をおかない人が同じ組織にあれば意
識の溝が生まれますね.組織は多かれ少なかれヘテロな人たちの集団だから,色々な
人がいて当然で,「ある意味その方が面白い」のも正論です.生活のかかった組織は
足を引っ張り合うよりも高めあうことが望ましいということを前提に置いたとすれ
ば,茶飲み話に尽きることなくお互いに高めていける関係が望ましい.しかしそう
いっても理想論にも思え,満足度や興味の方向の個人差はどうしてもありますね.

こじんまりした例では研究室で自主ゼミをやろうとする場合に悩まされます.とくに
学生のように中途半端に自由で,かつそれぞれの目標(なりたいもの)が明確でない
・或いは一致しない場合にはなおさらだと思います.

組織が進む方向が構成員の意思の集合で決まるとすれば,意思の疎通または統制が図
られない組織は迷走する?
スケールを大きくした場合,社会全体は誰の意思で動くのだろう?社会全体が進んで
いく方向は一部の官僚の判断では実はなくて,個人の選択の集合?

4●精一杯やることが自分に誠実であるということである?

ある場でこんな話をしたことがあります.考える習慣を備えているなら,考えそれを
生かせる生き方を選択するべきだ.能力に応じた貢献をするべきだ.つまり,精一杯
やるべきだ.体の不自由,家庭の事情等,人によっては選択する余地がない場合もあ
り,伸びたくても伸びることができない場合もあることを考えてみる.もしもそう
いった制約がなくて選択の余地があって,人に出来ないことができるなら,それをす
るべきだ.という考え方です.

逆にこんな声も聞こえます.価値観は多様化している.どういう生き方を選ぶかは個
人の自由だと.確かにそれは罪でも悪でもありません.何がいいか悪いかということ
はここでも言えません.

私見をはさむなら,能力のある人が,自分が楽することに全力を注いでいる様は見苦
しいと私は思います.自分と家族のために力の一部を使ったら,あとは世の中の役に
立てるために使う.しかし学生うちでそんな話をすると,「世の中のために働く」と
いうのも自己満足ではないのかという言葉が返って来た事があります.めげまし
た.

実際は今日も明日も同じ事の繰り返しであったり,なかなか前に進まないとイライラ
することも多いかもしれません.自分は前進しているのか?だいたい進歩する必要す
らあるのか?

仮に場を選べなかったとしても,世の中のためが第一目標でないとしても,自分の持
ち場で,向上心をもって,よりよくしようとして-例えば排出物を減らす等でも良い
でしょうが-心がけて仕事をする,それが回りまわって世の中の役に立てばいい.

5●何が大事か

ここまでに挙げた,考えるかどうか,精一杯やるかどうか,その選択にしても,動機
をたどれば,「その人にとって何が大事か」という問題にあたるのではないでしょう
か.

それに応じて人は選択する.「一番大事なことは楽に生きること」,「他人がどうあ
ろうと自分が望みの仕事や地位に就く事」.それが核心と判断されればその人はそち
らに向かおうとするでしょう.ただ,それらは本当に核心なのか.地位を通じて何を
したいのか,楽をして,できた時間をどうしたいのか.

6●負の側面をあわせ見ようとする姿勢

物事の負の側面はいたるところに顕われていて,日ごろ何気なく目にしているけれ
ど,見ても気づかない,意識されない場合がとても多いと思います.きりがない.し
かしそういったものにも目を向け,背景に関心を持つことには意義があると思いま
す.見ようとする,聴こうとする態度があれば,生きていくことは深みを増すと思い
ます.

スーパーの店頭に並ぶ野菜や果物を見て生産者があることを思うとか,山のキャンプ
場で汚水を流す前にその行方を思うとか,菓子パンをおやつに食べる時に24時間体制
で稼動する工場の熱気を思う,といったこと.これも,他者への思いやりを含めて,
世の中に調和して生きる姿勢の一つの表現型と考えます.

7●個人にできること?

周知のとおり日本の食生活は輸入に依存して成り立っていますね.農水省の試算に拠
れば,2000年に国内耕地面積480万haに対し,輸入元として海外に依存している作付
面積はおよそ1200万haにも及ぶということです.また,特に輸入元が途上国である場
合,日本の需要の変化が相手国の経済に与える影響は非常に大きいともいいますね.

国内の農業は増産から質へシフトして久しいですが,国内の農地では到底1億2千万人
の国民全体を養えないという「量」の問題は,今日の献立が安全か体にいいかという
「質」の問題よりも重要な問題ではないのでしょうか.それとともに,輸入によって
海外に転嫁している環境負荷が存在することをもっと認識する必要はないでしょう
か.

認識したとして個人(生産者,消費者,技術者)はどうすればよいのだろう?政策誘
導に任せなければならない面とあわせて,我々にできること?たとえば食べ残しを減
らすといったことを含めて.

8●他者への配慮

話がところどころでそれましたが,こうして考えてくると,5●で自問した「最も大
切なこと」(行動を規定する核心)
は,自分が今どうかに加えて,これまで挙げてきたような「他者への配慮」を含めて
考えたときに初めて見えてくる質のものなのではないだろうかと思うのです.そうし
た上で,あくまで判断は個人に任されているのではないでしょうか.

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最後にますます私的なことで恐縮ですが,しばらく東南アジアへ調査渡航してきま
す.海外はほとんど初めてなのですが,日本を離れてみるとまた日本の違った面がみ
えてくるのかな.長々と失礼しました.


松田 晃
mtdakr@cocoa.freemail.ne.jp  






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