[BlueSky: 3770] 技術と科学のありかた


[From] "Y.Kuzunuki" [Date] Fri, 9 Nov 2001 10:30:06 +0900

こんにちは、葛貫です。

科学と技術に関するスレッドを読んでいて、一昨年、別のMLで
「科学警察とか」という話題がでたことを思い出しました。

システムが円滑な運営や全体の利益を考える時、科学は無駄の
ない合理的な判断を下してくれる。
でも、それは個人が感じたり、求めている心地好さ等の「質」
とは、違う次元にあるものかもしれない。
科学的に説得されると、自分がひどい我が儘者のような気が
してくるけれど、それでも美意識に反する、嫌だと言うことも
あるかもしれない。「科学的」であることが与えてくれる「質」
に失望している一般市民は多いのではないでしょうか。

何かを決定する時に、科学は水戸黄門の印篭のような役割を
果たしていいものなのでしょうか。
「科学的に・・・・・・・だ。」と言われると、一般市民は、
「へへっ〜!!」と、ついつい従ってしまいますが、たとえ
科学的に正論であっても、嫌なこと、受入れ難いことがある
かもしれません。

ともすれば、自分が開発した技術を「それしかとる方法がない。」
かのように提示しがちですが、様々な科学的な選択肢を提示し、
「科学的には・・・・で、それに従わないと、・・・という
デメリットがありますが、あなたは、どのような選択をなさい
ますか?」という社会的・政治的な選択を仰ぐ働きをする機関が
あってもいのでは。

豊かな社会というものは、維持管理に都合の良い選択肢の少ない、
規格化された社会ではなく、様々な選択肢が用意され、たとえ
多数決というかたちであっても、個人が意思表示する機会を与
えられ、その選択が多少なりとも反映されるものだと思います。

というような事を書いて投稿したことを思い出しました。

「科学」に対する不信とというより、科学的知見を基にして
開発された技術を使うにあたって、個人の意思を表明する機会が
少ないのが問題なのかもしれないと思いました。

個人の意思は、買う買わないという市場を通して反映されると
いっても、製品の製造過程まで読み解ける消費者は少ないし、
ある技術が進歩しはじめちゃうと、進む方向に慣性のようなもの
が生じ、小宮さんが仰しゃったように先鋭化し、それに投資した
側は、引っ込みがつかなくなってしまう。

新しい科学的な発見がなされ、それを利用した技術開発に取り
組む前段階で、その技術が何を目指しているのか、ベネフィット
とリスク、開発者がどのようなユートピア像を持っているのか、
等が明らかにされ、社会的な選択を受けるようになればいいのかな、
と思いました。



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