aquaです。
狂牛病と科学の限界、というか、技術と科学のあり方について。
いろいろコメントいただきありがとうございました。
ちょっとピントが外れていたようで申しわけありません。
たぶん、狂牛病から離れた筋で書いたほうがよかったのかも
知れません。
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自分は毎日毎日技術文献を訳していて、
「とにかく売れればよい」
「モノは多ければ多いほどよい、速ければ速いほどよい」
という隠れた価値観をひしひしと感じちゃうんです。
もちろん、「仕事」は「仕事」、ですけど。
技術者は、自分の限られた専門分野で
たとえば、性能を1オーダ上げること(?)に
血道を上げているみたいで、それはそれとして
それこそ「仕事」なんだろうと思います。
疑問を感じている人もいるんじゃないかと思いますが、
「とにかく、多いこと、速いことが『いい』、モノが売れれば『いい』」
という暗黙の了解とかプレッシャみたいなものがあるように思う。
『いい』?
とにかく多ければいい、という価値観って
ほんとうに幸せにつながるんだろうか。
そういう、拡大路線を当然のものとして
個別の技術の追求に奔走したあげくが
複合的で解決が困難な環境問題を生み出したのは
分かってるのに、個別の関係者が疑問を持っても、言い出せない。
それよりも、今までまきちらした害毒の悪影響を
少しでも低減する方に方向転換したほうがいいのではないか、
と常々思っています。
そういう技術だったら、どんどん実用化してもらいたい。
なので、狂牛病で「経済的な損失」云々が持ち出されると、
ああまたか、、、を禁じ得ませんでした。
もちろん、酪農家や流通業者という、直接関連する
方々の損失が想像できないわけではありません。
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最初から長い文章を書いてもうしわけありませんでした。
ご指摘のように、やや冷静さを欠いたニュアンスだったかも
知れませんし \(^^;
「科学の方法」については、また別に考えついたら
書いてみたいと思います。
すでに、観察する側とされる側をきっぱり分けることはできない、
対象を個別の要素に還元し、それを論理で組み立てたからといって、
有機的な系全体を説明することにはならない、というのは
現代科学の常識なのでしょうが、
それに代わるパラダイムとはどのようなものなのでしょう。
また、多ければ多いほどいい、に代わる価値観は
どのように表現すればいいかと思います。
。.・。☆・。 Aqua 。.・。゜☆
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