尼崎市の一ノ瀬です。
このところテロの話題に振り回されて、議論に参加していませんでした。申し
訳ありません。
太田さん#3647<
【1】代議士ひとりひとりが広くみんなの意見を集約した態度をとるべきだとい
うもの。
【2】代議士一人が、ある程度のまとまった人々の意見を集約しており、
その(それぞれ違った意見を集約した)代議士が集まった総和が、
国民みんなの意見であればいいという考え方
ですね。これはどっちなんでしょうか。意見が別れている気がします。
>
中澤さんも指摘しておられましたが、これは間違いなく【2】です。
極端に言えば、人は一人一人違っていますから、厳密な意味では意見の集約な
ど不可能です。
けれども、それでは一人一人がバラバラになって社会が成立しなくなるので、
一定レベルの意見や見解の違いについては、どうしてもこれを受け入れざるを得
ません。
問題は、その妥協点をどうやって決めるか、で、その手法として”話し合い”
があるわけです。
社会が大きくなると、国民一人一人が直接話し合いに参加することが出来なく
なるので、便宜的に代表者を議会に送り込んで、そこで話し合いをさせて、妥協
点を探らせることになります。
その結果として【1】:みんなの意見が集約された状態、に到達できることに
なります。
<
数をあつめられるものが力をもってしまい、少数者には抵抗する力が与えられ
ない。
>
これは微妙な点だと思います。
妥協点に到達するためには、最終的には多数決を行使するしかありませんが、
多数者による数の力最初から振り回していては、適切な妥協点などには到達でき
ません。
英米の国会の様子を見ていると、特定のテーマについて議論を戦わせていま
す。
少数意見であっても、議論でその正しさが証明された場合は、その意見は尊重
されているようです。
仮に多数派が、優れた少数意見を葬り去るような行為に出た場合は、次の選挙
で議席を失う、と言う国民による議会の外からのチェックが機能しなければ、”
少数者には抵抗する力が与えられない”状況に陥ります。
特定業界との結びつきで固定的に議員を国会に送り込むような仕組みは、当
然、多数派の専横を生み出す温床になります。
(他の方の意見には、コメントできませんでした。すいません)
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