[BlueSky: 352] Re:350 RE:238 小学生に環境問題をどう教えるか?


[From] ymizuno@yo.rim.or.jp (水野義之 (Y.Mizuno)) [Date] Mon, 9 Aug 1999 09:55:12 +0900

後藤さん、青空MLの皆さん、水野@京都女子大です。

At 03:15 1999.08.09 +0900, Ken Goto wrote:
>> いえ、(小学生であっても)、わかった、と思えることは、幸せなことだと
>> 思いますが...。

>はい、幸せなことだと思います。ただ、「頭でっかち」的理解であるならば、そ
>れはまずいだろう、というのが僕の意見です。特にそれが、思想的な問題に絡む
>ものであるならば、ということです。

おっしゃることをもっとよく理解したいのですが、例えば、「頭でっかち」的理解
の例は、どういうものでしょうか?


>> 大量の落ち零れが出ている時代、というのは、私の直観的には、間違いで
>> あると思っています。おそらく、ちょっと増えている、という程度でしょう。
>> 自殺者が増えている、というのと同じですね(私の直感では)。
>
>そうですか。僕は特に算数落ち零れを念頭においていたのですが、昔より少なく
>なったということですね?僕の中学時代、勉強の好きな子は50人クラスで2,
>3人ほどだったと思います。嫌いな子でも勉強はしますが、それは無理矢理。

いえ、大量だとは思わない(そういうことばにまどわされたくない)という
意味です。むしろ、大量の子供たちにとって、いまも昔も、学校は楽しいでしょう。
でも、算数は私も、あまりすきではありませんでした。でも問題が解けるように
なれば(おそらく達成感のようあもので)楽しかったと思います。

>
>で、多分、水野さんと僕の教育観の根本的な違いは、僕はクラス全員の子が「好
>き」になることを理想としている点にあると思います。

特に算数が(私の表現でいえば、定量的な見方が)、ということですよね?
私も、それが目標です。そういう世の中になってほしい。
でもきらいな子も、かならず出現する、ということもまた、現実でしょう?
そういう現実は、理想論には、組み込まれないとすれば、それこそ、空論
(現実を無視した理想)になりはしないでしょうか?

> も印象的に残った言葉(今でも唯一覚えている言葉)は、「人間は考える
> 葦である」というパスカルのフレーズでした。
> 僕の教育観の基本は、この考える人間的本性を抑圧するものを取り除くと
> いう観点から発想してあります。

例えば、この場合でも、パスカルが本当にいいたかったことは、葦に過ぎない、
(人間存在の空しさ、孤独、実存的不安のようなもの)ですよね?
考えるのも人間的本性なら、悩むのもまた人間的であり、不完全な存在であると
私は思います。そして例えば、勉強が出来ないなら、自分はどこでがんばるか
を考える、というようなことです。なんだか、そのあたりにも、違いがあるの
かもしれませんね。

>
> これに対し、水野さんは現行教育システムが理想的に進められて来ている
> ということを前提にして発想しています。もちろん、教科レベルの低下を
> 嘆いていらっしゃいますが、われわれの頃と比べればずっと高いのではな
> いでしょうか?少なくとも、集合論などは小中学校でやりませんでしたよ
> ね?高校でも、行列はやりませんでした。

集合論は、もう「失敗」として小学校ではやられていないはずです。高校での
複素数なども、(例えば、ドモアブルの定理なんてのもありましたが)、
高校から、なくなろうとしているはずです。
われわれの頃と比べればずっと高い、というよりは、我々がその中味をよく
知らない、ということかもしれません(もちろん、私もよく知りませんが、
本当は、そんなこともいっておられません)。

文部省(というか現行のシステム)の問題は、反省がないことです。
何の反省もなしに(内容の分析のことです)10年に一度、改訂するのは、
迷惑であるってことだと思います。教師の教育実践を何と思っているのでしょうか?

もちろん、現行教育システムが理想的だとは思っていませんし、だからこそ
こうやって議論に参加させていただいております。

>
>> >「できる子」は放っておいても自分で勉強します。でも「できない子」はついて
>> >いけません。学習レベルを下げたら、それ自体としては「できる子」は退屈しま
>> >すが、例えば、「できる子」が「できない子」を教える側にまわれば、和気あい
>> >あいの授業風景になり、かつ、どちらの側にとってもプラスの効果があります。
>>
>> 人間は、そんなことで、コントロール出来るとは思えませんが。
>
>どんなことで何をコントロールできる、と僕が言ったのか理解できませんでした。

すいません。「「できる子」が「できない子」を教える側にまわれ」、という
ことを、いっていましたが、私の誤解かもしれません。
易しくすれば、そういう余裕が増える、というご指摘ですよね?
私も、そう期待したいです。そういうの、大好きですし(笑)。


>
>> どんなに
>> 易しくしても、サボる子はさぼります。低きに流れてはいけないと
>> 思いますが。
>ですから、クラス全員の子が楽しめるような形にもっていくのが基本なのだ、と
>いうことを申し上げているだけです。そうすれば、サボりも減る。

了解しました。私も、それ、大事なことだと思います。でも、
今でも、それくらいのことは努力されていて、なおかつ、こんなもんなんじゃあ
ないのかな? なんだか、そういう感じがしています。

>
>・・・或いは、理解できなければ面白くないわけで、ね。理解できない⇒面白く
> ない⇒理解できない、というループが成立します。

これは真理でしょうね。


>例えば、高校生物の教科書をみてみると、ものすごい知識量です。大学の生物学
>関係の教員で、高校生物の知識に関するテストで100点満点をとれるひとは、
>極々例外でしょう。それぐらいの知識量です。

今も昔も、教科書なんて、そんなもんだと、私は思っておりますが。
いくら易しくしても、そういう印象はかわらないのでは。あるいは生物が
例外なのでしょうか? 今度、生物の教科書を拝見してみます。


>レベルを下げることによって授業時間の余裕ができることがポイントです。
>もちろん、それだけでは無理で、クラス内の友好関係が結ばれていないといけま
>せん。先生の説明では駄目だけど、友達の説明なら納得する子はいるものです。

なるほど。おっしゃる通りですね。


>確かに、受験科目に数学が減ってくると、高校数学の学力は全般的に低下するで
>しょう。ですが、僕が今問題にしているのは、大学生における小学校レベルの算
>数計算能力です。そして、その原因を小学生時における「小手先」ないし「落ち
>零れ」に求めているのです。

そういうことは、あるでしょうね。


>> >・・・なぜ、比較的軽いか、そこには「思想問題」が全く関係しないからです。
>> > でも、社会科関係であれば、何度も言うように、頭でっかち的教育は「洗
>> > 脳」以外のなにものでもありません。

洗脳されっぱなし、だったら、問題でしょうね。

>>
>> 教育とは、本質的に、「洗脳」ではありませんでしたか?
>> そこで終わっていれば、それは、問題ですが。でも自分で考え始める
>> というところは、ご指摘の通りですし、そこですくわれますよね。
>> 最初は、何でも「まね」をするところから、始まると思いますが。
>> そしてそれは、(学びの方法としては)悪いことではないと思いますが。
>
>この御意見と初期の御意見(↓)とは矛盾する感じがするのですが、どうでしょ
>うか?

メディアが垂れ流す断片的な脈絡のない知識をさして、「頭でっかち」的知識
と呼んでいます。学校では、もっとよく考えた教育がされる必要があると
思います。それには、環境問題の難しいところも、ブイレイクダウンして、
入れてはどうか、と思うのですが。それを「洗脳」と呼びたければ、それでも
構いません、ということの積もりです。「最初は、何でも「まね」をするところ
から、始まると思いますが」というのの、まねをする対象が、学校で学びべき
こと、です。それは大人が伝えたいと思っておることであって、それを洗脳
と呼ぶことも出来るでしょう(私はそんな言葉を使いたくありませんが)。

>
>> だから学校でやってほしいことは、ご指摘のように、みかけ上の「いい子」
>> を増やすのではなく、そういう「背伸び」「頭でっかち」的知識や実践の
>> 内容のなさ、根拠のなさ(不安材料の蓄積をしても、仕方がないということ)
>> に早く、気が付いてほしい、というようなことです。

***


>
>「まね」全般を僕は否定しているわけではありません。習うより慣れよ、という
>ことは学習の基本的方法論でもあります。僕が危惧しているのは、思想的洗脳で
>あり、「背伸びをしたいい子」の将来です。

逆にいうと、(将来に亙る)思想的洗脳が可能である、ということですよね?
なんだか、洗脳ということばがじゃまで、議論が出来ない感じがしますが。

背伸び、ということばもなんだか邪魔なのですが、私は「背伸び」を
「いい意味」で使っているのだと思います。これもあまり理解されるようにも
思いませんが。

>
>水野さんなら、戦前の軍国主義教育を否定する根拠はどこにありますか?「洗脳」
>そのものには求められないとしたら、「洗脳する思想が悪い」という点にしか求
>められないような気がしますが、どうでしょうか?

内容の問題、論理性の問題、であろうと思います。方法の硬直性は、
その(内容や論理性の欠如の)無理さから出ているのでしょう。

>
>・・・戦前も戦後も教科書は国家検定ですから。

私は、国が国を存続させようとするのは、よく理解出来ます(笑)。


>学校に入ってから「も」遊ぶべきです。遊ぶ場は課外でも課内でもどちらでもよ
>いです。

学校で遊ぶことを教育するわけではないので、それ(遊び)はほっておいても、
いいということになりませんか? なんというか、定義上、そうだと。


>> 3歳の子供でも、環境問題に心を痛めています。小学生でも、原爆や戦争を
>> 悪いことだということについて(それは、ご指摘の通り、そう教えられる
>> からですが)、考え始めていると思います。でも、感覚的なのです。
>> それを(なんとか)考えさせるのが、先生の役目だと思いますが。
>> それは教師の適切な設問と指導によって、実現されると思いますが。
>> 見事な話が出来る先生もおられると思います。
>
>3歳のこどもでもこころを傷めている、とは驚きです。どのような世界なのでしょ
>うか?僕には全く信じられません。

うちの子供が、テレビで、環境問題で生物が死に絶えていく映像を見て、涙を
流しながらみていた、という経験がありました。幼稚園にはいる前のことです。
いまのメディアの影響はそれくらい、強いし、同時に感覚的だと思います。
それに論理と言葉を、なんとか与えてやって、考えられるように
なってほしい、と私は思うわけです(私はここで、大学での環境教育でのこと
を、念頭においていますが、でも、そういう学びのサイクルを、小学生から
始められるのではないか、というのが、繰り返し、主張していることです)。

>
>社会的正義、社会的思想性の問題について、「そう教えられるから」そうなんだ
>と思いたがる。だから、いけない、といっているのです。軍国主義の時代であれ
>ば、逆に教わる。僕にとって、二つは同じことです。なぜなら、「頭でっかち」
>で、「権威」にあわせている「だけ」だからです。

そう教えられることと、それをずっと信じこむこととは、別だと思います。

というか、おっしゃることだと、なにも、教えられないのでは???


>
>こうした正義、思想に絡まる題材について、思春期以降で教材にするのでは遅い
>理由はどこにありますか?

わかりません。でも、小学生の感覚的な理解を親が訂正する必要がある、
という(今の小学校での環境)教育は、私は、不十分であると思います。
そして、それは、殆ど、今のマスメディアのレベルと同じです。
逆に、小学生に無理だ(高度に過ぎるというご指摘なのですが)と思う理由も、
私には思いつきません。


>
>> 学校の役割って、なんなのでしょうね? 
>思想的、価値観的洗脳を行わずに、楽しく勉強することです。

なるほど。そういうことが出来たらいいですね。

>
>> >「できる子」は素晴らしい言葉を吐くかもしれません。でも、僕はそれを(それ
>> >自体としては)信用していません。「頭でっかち」である可能性があるからです。
>>
>> 本人も、自覚していると思います。でも、自覚は、出来ていると思います。
>> だから、それを克服しようとすることでしょう。
>
>う〜ん、言葉に詰まります。自覚できないケースもあると思うのですが?

なんといいますか、出来る子は、そういう演技をしていることを、わかっている
と思います。こうすれば大人は喜ぶんだ、というわけです。そういうレベル
のことは、出来る出来ないにかなわりなく、見抜いているかもしれませんね。
もっと、したたか、だと思います。

なんといいますか、英語の単語を、たくさん覚える、という段階の必要性
のことを、私は、言っています。そういうのが楽しい時期もありますよね?
そして、だんだんと、成長していくと思います。

>
>> >> 繰り返し登場することの意味は、その度ごとに理解が深まること、復習の機会を
>> >> 与えることになること、落ちこぼれからの回復の機会でもあること、など、
>> >> 積極的な意味があって、文部省の全体の方針も、そういう形になっているはず
>> >
>> >水野さんの御意見は、落ち零れをつくることを承認したうえでの話のようですね。
>>
>> そうです。それをなくすことはなど、出来るとは思われません。
>
>そういう落ち零れのこどもには「教育を受ける権利」は保証されていないことに
>なるのですが、それは構わない、ということですね?

教育とは、自分を知ることです。それが出来れば、十分であると思います。
というか、それ(一人一人の自己実現の支援)が教育の目的であって、
教科内容そのものの落ちこぼれ(テストの点数が悪いこと)であろうが
なんであろうが、そんなことは、いわば、どうでもいい、ということです。

教育の機会は、保証されています。内容とかテストの点まで、保証
する必要を感じません。

もちろん、内容が教育の本質なのですが、それを忘れても、なお残るものこそ、
大事だと思います。おちこぼれ、という表現そのものを、いやな言葉ですよね?
なぜ、いやだと感じるかというと、社会に出れば、偏差値なんてぜんぜん、
関係ない、ということを皆、わかるからですよね? おちこぼれを作らない
ということを目標にすると、内容を無限に低くするしか、方法はないように
思います。そうすると、学校そのものが成立しなくなるでしょう(まあ、
それでもいい、というのら、別ですが!)。


>> >また、本当に理解しているなら、復習など要りません。
>>
>> いえ、必要だと思います。本当の理解(とその時、思ったこと)なんて、
>> 実はいいかげんなものだと思いますが(というか、理解は、いくらでも深まる
>> ものだと思いますし、そこが面白いのだと思いますが)。

>自転車の例を出したのですが?

何年もかかることの教育の、教育方法や教育課程の考え方を議論しているので、
適切な例であるとは思いませんでした。

>確か、問題は、分数計算能力に焦点を当てていたと思います。
>これをいったん理解したら忘れないだろう、ということなのですが、違いますか?

自転車も、分数も、そうだと思います。


>> 苦痛を感じてはいけないのでしょうか? 苦痛、というよりは、ちょっと我慢
>> すれば、わかるものを、と思うのですが。
>水野さんは勉強のできない子と遊んだことはないですか?

ありますが。自分も、算数で、あの割り算の計算方法(テクニックとして
こうすればいい、と教えられて)それが理解できなくて、悩んだことも
ありますが。


>
>いずれにせよ、今の子が「我慢」強くないのは確かです。それはしかし、本来、
>学校教育の問題ではありません。家庭の躾なり地域での躾が劣化したことが基本
>的要因でしょう。似たようなことは【339】でも申し上げた通りです。

その通りです。で、そういうことを前提にして、成立する教育を、
考える必要があると思います。

>
>「自由にすればだらける」というのが水野さんの発想の前提です。勉強のことに
>限定して話をしますが、面白ければ自由にしてても勉強する、という点が僕の発
>想の前提です。

そうですか! それならいいのですが、うちの子を見ていても、
言われなければ勉強しないのですが! でも、勉強すれば面白い、
と思うでしょう。子供って、そんなもんでは?(そこが違いますか?)


>僕の場合の教育改革はしたがって、面白い授業にしていく、という点につきます。

それは現場の先生がどれだけ苦労をされているか。それでも、現状の
レベルだと考える必要があると思います。


>かつ、現状で落ちこぼれているこどもにも「教育を受ける権利」を保証しないと
>いけない、と考えますから、学習レベル(知識水準)の低下を歓迎するわけです。

法律的な権利、という話しならば、教育を受ける機会を均等に保証しているだけ
であって、学習レベルを均等にせよ、というのは、おそらく問題が大きい
(非常に、理想論に過ぎている、空論である)のではないか、と思いますが。


>で、授業進度にゆとりを持たせて、一つ一つのことを丁寧にじっくりと考えてい
>こう、という授業を行って貰えたら、と考えるわけです。

それは、最大に努力されていると思います。どの学校でも、教育目標
というのがありますが、どの学校でも、もう何十年も前から、
実は、じっくりと考えられる子供、自分で出来る子供、というような目標が
延々と掲げられ、努力されてきています。

>
>水野さんの場合は、学習レベル(知識水準)を下げることなく、かつ洗脳こそ教
>育であるという立場で、かつ、落ち零れが出てもしょうがないという立場です。
>そうすると、初等教育について愁うことはひとつもないことになりますが、どう
>でしょうか?

洗脳こそ教育である、というのが誤解されているようなので、それくらい
なら撤回してもいいですが、人間が最初に何かを学ぶ方法のことを言っています。

現場の先生の熱意と子供の力を信頼して、でも、環境問題などという
問題が出てきて、それを学習レベル、知識水準を下げることなく、
学ぶ方法を考えたい、という主張です。特に初等教育については、それが
出来ていない、という憂いがありますが。


>
>・・・本論からは外れますが、大学生における学力水準の低下も、小学生時の上
> 滑り教育とは無縁と考えていらっしゃるわけで、受験時の負担を今より増
> 加せよ、という御意見になっています。

違います。無縁と考えてはいません。算数などは、積み上げであると
考えております。それがそのままになっている(大学まで来てしまう)のは、
(例えば、数学を)受験しなくてもいいからだろう、と言っています。

つまり、科目を増やせ、といっているのです。だいたい、1科目受験
なんて、そんなばかな(内容に乏しい)試験をやって、どうするんですか?
だいたい、そんなことで大学の勉強が出来るなんておかしいでしょう?
そんなものは、私立大学の悪しき迎合主義です。

いえ、つい、力んでしまって、すいません(笑)。


>> >・・・しかし、それは「教科のもつ価値観」に完璧に符合している、というだけ
>> > の話でもあるように思うのですが、どうでしょうか?
>>
>> 完璧、という言葉は不要と思いますが、「教科のもつ価値観」がそんなに
>> 無意味とも思いません。またそれに符号させられることも、無意味とも
>> 思いませんが。
>
>思想的洗脳がテーマなのですが、水野さんの御立場からはそれこそ教育ですし、
>「いい子」の方を歓迎しているのですから、議論の平行線もやむを得ませんね。

例えば、国でもいいですが、そういう概念って、やっぱり、思想的洗脳、ですよね?
だから、それそのものを否定しては、社会は成立しないと思います(それでも
いいなら別ですが)。

だいたい、思想的洗脳って、どういう状態を差して言っておられますか?

また、「いい子」の方を歓迎しているつもりはないです。
子供が、いい子になろうとする努力(つまり、周囲とのコミュニケーション
によって、何かを学べることを、直観的にわかっている状態)は自然なことだ、
ということを前提にしたい、というようなことです。

でも、おそらく、平行線ですね。

>
>> >理科に興味を向いてもらうには、やはり、こどもの等身大の理解レベルでの教材
>> >が必要でしょう。面白ければ、こどもは関心を示します。
>>
>> 例えば、それは、どういうものでしょうか?
>
>具体的な教材展開の話は、僕のテーマではありません。
>理科教師集団が中心になってやって欲しい事柄です。

よっぽど面白くなかった、ということなんですね。でも楽しかった、という
わけですか。
具体的な教材展開ではなく、どういうものをイメージしておられるのか、
ということは、教えていただけないでしょうか?

それはほとんど、教え方一つ、だと思います(どんな難しいことでも、
理解させられる、という自信が私はありますので、教材がわるい、
とは思わないのです)。


>それはともかく、水野さんが信頼する「こどもの能力」は何ですか?

知的好奇心です。知りたい、わかりたい、という心です。話が出来る、
という状態(を好む、という能力)のことです。

>
>また、「頭でっかち」や「洗脳」を行う必要がある、のは何故なのでしょうか?

教育の初歩として、最初は避けられないと思うからです。
言葉を覚えるようなものです。だから、それを、「頭でっかち」や「洗脳」
とは、本当は呼びたくないです。


>> それは理解出来ます。でも、小学校のころは、基本的に洗脳(でもそれは自分の
>> 世界を広げて、わかることが増えていくので、楽しいハズ)だと思います。

>自分の世界を広げることは「洗脳」を経ずに可能だと僕は思うわけです。「いい
>子」は作って欲しくない。でも、水野さんは「いい子」好みだからなぁ、、、す
>れ違いますね。

私は、そういう意味では、いい子も悪い子も好きです。子供はみな、好き
です。どの子も、そんなに違いがあるとは思っていません。だから「いい子」
だって好きです。後藤さんこそ、「いい子」嫌いに見えますが(笑)。
そんなトラウマはありませんか?

>
>> 個別的具体的な知識の獲得過程で、いろいろな言葉を知っていくことは、
>> (批判できるようになる以前の問題として)基本的に重要であると思います。
>>
>> そうして、おとなと、だんだん、話しが出来るようになっていくわけですね。
>ここは全くその通りです。

そうなのです。私は、その過程を、課程に出来るのではないか(環境問題に
ついても)、と思っているのです。


>> これは、評価の問題ですが、ぎゃくに、そんなことで、悩まない子供も
>> いると思います(例えば、うちの子がそうです^^;;)。
>
>悩まないこどもがいるのは理解できますが、僕の論点はそこにはありません。
>嫌いなこどもを作るだけなのに、なぜ、芸術科目で評価する必要があるのか、と
>いう点が問題なのです。

先生も、点をつけたくないでしょうね。でも、仕方がないのでは。

>
>> 自分の人生なのだし、もっと子供もたくましい、と思います。いろいろな
>> ところから、いろいろなことを学んでいますよね。でもそれを、「考え」させ
>> られるのは、教師だと思います。
>
>人間は考える葦ですから、、、考えることを「強制」しなくても、考える意欲を
>失わせる材料を除くことで、こどもは自由に考えます。教師は、別の視点を提供
>するなどして、こどもどうしの議論を活性化してくれればよいでしょう。

そうですね。

>
>・・・考えることをこどもに奨励することでは、水野さんと僕とで一致していま
> す。その奨励における方法論が全く逆なのです。
> 水野さんは教師なり教材の価値観にあわせて「考える」ことを奨励してい
> るようです。僕はそれはいけない、と主張します。
> また、水野さんは、放っておいてはこどもは考えない、と考えますが、僕
> は、放っておいても興味を抱くテーマなら自発的に考える、と考えます。

やっぱり、きちんと教えないとだめ(というか、なかなかわからない)と思います。


>> 子供が大人のコピーになろうとすること、自体は、自然なことだと思います。
>
>どういう意味かつかみかねますが、こどもが伝記上、あるいは現存のヒーローに
>憧れて、そのようになりたい、と思うことは自然でしょう。
>でも、それと、小学校教育における思想的洗脳とは問題が全く異なるように思い
>ます。

社会的な活動とか、問題意識の視点も含めて、大人が果たすべきロールモデル
(役割モデル)のことを、コピーと表現しています。

>
>以上、対立点がかなりはっきりしてきたようですね。

そうですね。丁寧に(私の考えの)問題点を指摘してくださり、感謝して
おります。




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Y.MIZUNO 水野 義之 (大阪府 茨木市)
http://www.rcnp.osaka-u.ac.jp/~ymizuno/
==> Kyoto Women's Univ. http://www.kyoto-wu.ac.jp/
Tel/fax: 075-531-7104 mizuno@kyoto-wu.ac.jp


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