[BlueSky: 350] Re:348 RE:238 小学生に環境問題をどう教えるか?


[From] Ken Goto [Date] Mon, 09 Aug 1999 03:15:26 +0900

水野さん、青空MLの皆さん、
               後藤@帯畜大です。

水野さん【348】:
> At 18:05 1999.08.08 +0900, Ken Goto wrote:
> >> 私の意図は、小学生だからといって、レベルを落としてはいけない、
> >> というようなことです。というか、(本当は)難しいことを、易しく話して
> >> わかった気にさせるのが、教師の力であり、役割であると思う、というような
> >
> >一連の水野さんの御発言から↑のことは理解しています。ただ、了解はしていな
> >いのです。
> >
> >「(本当は)難しいことを、易しく話してわかった気にさせる」のは、まさしく
> >「頭でっかち」をつくることではないでしょうか?
>
> いえ、(小学生であっても)、わかった、と思えることは、幸せなことだと
> 思いますが...。
はい、幸せなことだと思います。ただ、「頭でっかち」的理解であるならば、そ
れはまずいだろう、というのが僕の意見です。特にそれが、思想的な問題に絡む
ものであるならば、ということです。

> >大量の落ち零れが出ている時代に、そして、教師の全体的力量も低下しているか
> >もしれない時代に、学習レベルを下げない、とはどういう意味でしょうか?
>
> 大量の落ち零れが出ている時代、というのは、私の直観的には、間違いで
> あると思っています。おそらく、ちょっと増えている、という程度でしょう。
> 自殺者が増えている、というのと同じですね(私の直感では)。

そうですか。僕は特に算数落ち零れを念頭においていたのですが、昔より少なく
なったということですね?僕の中学時代、勉強の好きな子は50人クラスで2,
3人ほどだったと思います。嫌いな子でも勉強はしますが、それは無理矢理。

で、多分、水野さんと僕の教育観の根本的な違いは、僕はクラス全員の子が「好
き」になることを理想としている点にあると思います。

・・・余談になりますが、中2のとき、クラス大半の子が勉強なんて嫌だよう、
というものですから、僕は、職員室をまわって教師全員に「人間はなぜ勉
強するのか」を聞いて学級新聞の記事にしたことがあります。僕自身、最
も印象的に残った言葉(今でも唯一覚えている言葉)は、「人間は考える
葦である」というパスカルのフレーズでした。

僕の教育観の基本は、この考える人間的本性を抑圧するものを取り除くと
いう観点から発想してあります。

これに対し、水野さんは現行教育システムが理想的に進められて来ている
ということを前提にして発想しています。もちろん、教科レベルの低下を
嘆いていらっしゃいますが、われわれの頃と比べればずっと高いのではな
いでしょうか?少なくとも、集合論などは小中学校でやりませんでしたよ
ね?高校でも、行列はやりませんでした。

> >「できる子」は放っておいても自分で勉強します。でも「できない子」はついて
> >いけません。学習レベルを下げたら、それ自体としては「できる子」は退屈しま
> >すが、例えば、「できる子」が「できない子」を教える側にまわれば、和気あい
> >あいの授業風景になり、かつ、どちらの側にとってもプラスの効果があります。
>
> 人間は、そんなことで、コントロール出来るとは思えませんが。

どんなことで何をコントロールできる、と僕が言ったのか理解できませんでした。

> どんなに
> 易しくしても、サボる子はさぼります。低きに流れてはいけないと
> 思いますが。
ですから、クラス全員の子が楽しめるような形にもっていくのが基本なのだ、と
いうことを申し上げているだけです。そうすれば、サボりも減る。

・・・或いは、理解できなければ面白くないわけで、ね。理解できない⇒面白く
ない⇒理解できない、というループが成立します。

> いい例は、私立大学における、入試科目数の減少とその結末(学生が
> 高校時代に勉強をしなくなっている)です。易しくすることによる弊害が、
> ここにもあるのではないでしょうか?

ここは、高等教育の問題ですので本論から外れます。僕は、思春期前と後を明確
に区別して議論したいと思っています。

例えば、高校生物の教科書をみてみると、ものすごい知識量です。大学の生物学
関係の教員で、高校生物の知識に関するテストで100点満点をとれるひとは、
極々例外でしょう。それぐらいの知識量です。

> また、「できる子」が「できない子」を教える側にまわれば、ということは、
> レベルを下げることで実現されるとは思いません。人間の行動というのは、
> もっと複雑(というか、どんなにレベルが低くても、やっぱり勉強をサボって
> 安易な姿勢で遊ぶのがすき、というか)だと思いますが。

レベルを下げることによって授業時間の余裕ができることがポイントです。
もちろん、それだけでは無理で、クラス内の友好関係が結ばれていないといけま
せん。先生の説明では駄目だけど、友達の説明なら納得する子はいるものです。

> >分数計算などの算数に限って言えば、大半の子が小学生段階でドロップアウトし
> >ているのです。仮に計算できていたとしても、小手先でできている。しっかりと
> >理解できていれば、一生忘れるものではありません。大学生が算数できないのは、
> >「頭でっかち」教育の、比較的軽い弊害の一つですね。
>
> まったく違うと思いますが。受験科目の減少が、原因です(要するに、
> あまやかされていること、だからサボるわけです。さぼっても許される
> からですね。あたりまえなのでは?)。

確かに、受験科目に数学が減ってくると、高校数学の学力は全般的に低下するで
しょう。ですが、僕が今問題にしているのは、大学生における小学校レベルの算
数計算能力です。そして、その原因を小学生時における「小手先」ないし「落ち
零れ」に求めているのです。

> >・・・なぜ、比較的軽いか、そこには「思想問題」が全く関係しないからです。
> > でも、社会科関係であれば、何度も言うように、頭でっかち的教育は「洗
> > 脳」以外のなにものでもありません。
>
> 教育とは、本質的に、「洗脳」ではありませんでしたか?
> そこで終わっていれば、それは、問題ですが。でも自分で考え始める
> というところは、ご指摘の通りですし、そこですくわれますよね。
> 最初は、何でも「まね」をするところから、始まると思いますが。
> そしてそれは、(学びの方法としては)悪いことではないと思いますが。

この御意見と初期の御意見(↓)とは矛盾する感じがするのですが、どうでしょ
うか?

水野さん【299】:
> >う〜ん、とても高度な要求だ、と僕は感じます。【269】でも述べましたが、
> >幼児・初等教育で、僕が最も恐れるのは「背伸び」「頭でっかち」の危険性です。
> >
> >・・・それは、見かけ上、いいことはしているかもしれませんが、「いい子」を
> > 装っているだけで、本人自身も苦痛を感じているだけ、だと思うのです。
>
> おっしゃることはわかります。気をつけなければ。
>
> (中略)
>
> だから学校でやってほしいことは、ご指摘のように、みかけ上の「いい子」
> を増やすのではなく、そういう「背伸び」「頭でっかち」的知識や実践の
> 内容のなさ、根拠のなさ(不安材料の蓄積をしても、仕方がないということ)
> に早く、気が付いてほしい、というようなことです。

「まね」全般を僕は否定しているわけではありません。習うより慣れよ、という
ことは学習の基本的方法論でもあります。僕が危惧しているのは、思想的洗脳で
あり、「背伸びをしたいい子」の将来です。

水野さんなら、戦前の軍国主義教育を否定する根拠はどこにありますか?「洗脳」
そのものには求められないとしたら、「洗脳する思想が悪い」という点にしか求
められないような気がしますが、どうでしょうか?

・・・戦前も戦後も教科書は国家検定ですから。

> >僕は、小学生のこどもが、環境問題に心を痛めて欲しいとも、原爆や戦争を悲し
> >んで欲しいとも、思いません。この時期に必要なのは人間愛の養成、集団的正義
> >の養成なのです。後は本人の社会的自覚(思春期)を待てばよい。
>
> 人間愛の養成、集団的正義の養成、ということが、学校教育で、出来ると
> お考えでしょうか? それはそれこそ、学校に入る前に、遊びの中で、学ぶ
> べきことなのではないでしょうか?
学校に入ってから「も」遊ぶべきです。遊ぶ場は課外でも課内でもどちらでもよ
いです。

学校教育でできるかどうかは知りません。少なくとも「教科教育」ではできる筈
はありません。

ただ、水野さんは、ここでの僕の論点を履き違えていらっしゃいます。

> 3歳の子供でも、環境問題に心を痛めています。小学生でも、原爆や戦争を
> 悪いことだということについて(それは、ご指摘の通り、そう教えられる
> からですが)、考え始めていると思います。でも、感覚的なのです。
> それを(なんとか)考えさせるのが、先生の役目だと思いますが。
> それは教師の適切な設問と指導によって、実現されると思いますが。
> 見事な話が出来る先生もおられると思います。

3歳のこどもでもこころを傷めている、とは驚きです。どのような世界なのでしょ
うか?僕には全く信じられません。

社会的正義、社会的思想性の問題について、「そう教えられるから」そうなんだ
と思いたがる。だから、いけない、といっているのです。軍国主義の時代であれ
ば、逆に教わる。僕にとって、二つは同じことです。なぜなら、「頭でっかち」
で、「権威」にあわせている「だけ」だからです。

こうした正義、思想に絡まる題材について、思春期以降で教材にするのでは遅い
理由はどこにありますか?

> 学校の役割って、なんなのでしょうね? 
思想的、価値観的洗脳を行わずに、楽しく勉強することです。

> >「できる子」は素晴らしい言葉を吐くかもしれません。でも、僕はそれを(それ
> >自体としては)信用していません。「頭でっかち」である可能性があるからです。
>
> 本人も、自覚していると思います。でも、自覚は、出来ていると思います。
> だから、それを克服しようとすることでしょう。

う〜ん、言葉に詰まります。自覚できないケースもあると思うのですが?

> >> 繰り返し登場することの意味は、その度ごとに理解が深まること、復習の機会を
> >> 与えることになること、落ちこぼれからの回復の機会でもあること、など、
> >> 積極的な意味があって、文部省の全体の方針も、そういう形になっているはず
> >
> >水野さんの御意見は、落ち零れをつくることを承認したうえでの話のようですね。
>
> そうです。それをなくすことはなど、出来るとは思われません。

そういう落ち零れのこどもには「教育を受ける権利」は保証されていないことに
なるのですが、それは構わない、ということですね?

> >また、本当に理解しているなら、復習など要りません。
>
> いえ、必要だと思います。本当の理解(とその時、思ったこと)なんて、
> 実はいいかげんなものだと思いますが(というか、理解は、いくらでも深まる
> ものだと思いますし、そこが面白いのだと思いますが)。
自転車の例を出したのですが?
確か、問題は、分数計算能力に焦点を当てていたと思います。
これをいったん理解したら忘れないだろう、ということなのですが、違いますか?

理解が幾らでも深まる点は同感ですが。

> ...なんだか、ずいぶん、学習イメージが違っていますね。
> それ自体、面白い現象です ^^;;;
>
>
> > て、いざとなれば高校数学を使えるかどうか、これはひとえに本当に理解
> > していたかどうかの一点にかかっています。
>
> 本当に理解していなくても、使える、ということはいくらでもありますよね?
はい、そのとおりですね。本当に理解するときの「本当」が幾らでも深まるとい
う話ですね。

> >楽しいことだらけの小学生生活を僕は送りましたが、何か苦痛を感じないといけ
> >ない、ということですか?
>
> 苦痛を感じてはいけないのでしょうか? 苦痛、というよりは、ちょっと我慢
> すれば、わかるものを、と思うのですが。
水野さんは勉強のできない子と遊んだことはないですか?

いずれにせよ、今の子が「我慢」強くないのは確かです。それはしかし、本来、
学校教育の問題ではありません。家庭の躾なり地域での躾が劣化したことが基本
的要因でしょう。似たようなことは【339】でも申し上げた通りです。

「自由にすればだらける」というのが水野さんの発想の前提です。勉強のことに
限定して話をしますが、面白ければ自由にしてても勉強する、という点が僕の発
想の前提です。

僕の場合の教育改革はしたがって、面白い授業にしていく、という点につきます。
かつ、現状で落ちこぼれているこどもにも「教育を受ける権利」を保証しないと
いけない、と考えますから、学習レベル(知識水準)の低下を歓迎するわけです。
で、授業進度にゆとりを持たせて、一つ一つのことを丁寧にじっくりと考えてい
こう、という授業を行って貰えたら、と考えるわけです。

水野さんの場合は、学習レベル(知識水準)を下げることなく、かつ洗脳こそ教
育であるという立場で、かつ、落ち零れが出てもしょうがないという立場です。
そうすると、初等教育について愁うことはひとつもないことになりますが、どう
でしょうか?

・・・本論からは外れますが、大学生における学力水準の低下も、小学生時の上
滑り教育とは無縁と考えていらっしゃるわけで、受験時の負担を今より増
加せよ、という御意見になっています。

> >祖父・祖母の昔話を聞いておく、というのは貴重な財産になるでしょう。
> >でも、それをまとめる過程で、「教科における評価」という重い足枷がはめられ
> >ます。それによって、「感動的な」はなしも出来上がるわけです。
>
> そうですね。読書感想文のばからしさ、のようなものを、想定しておられる
> と思います。でも、そういう学習過程を、ばかにしてはいけないと思いますが。
> 例えば、「どうすれば、人を感動させられるか」、という、貴重な勉強に
> なるかもしれないのでは?

いやぁ・・・困ったな。そういう子供(「いい子」)にはなって欲しくない、と
いうのが僕の意見です。

> >・・・しかし、それは「教科のもつ価値観」に完璧に符合している、というだけ
> > の話でもあるように思うのですが、どうでしょうか?
>
> 完璧、という言葉は不要と思いますが、「教科のもつ価値観」がそんなに
> 無意味とも思いません。またそれに符号させられることも、無意味とも
> 思いませんが。

思想的洗脳がテーマなのですが、水野さんの御立場からはそれこそ教育ですし、
「いい子」の方を歓迎しているのですから、議論の平行線もやむを得ませんね。

> >理科に興味を向いてもらうには、やはり、こどもの等身大の理解レベルでの教材
> >が必要でしょう。面白ければ、こどもは関心を示します。
>
> 例えば、それは、どういうものでしょうか?

具体的な教材展開の話は、僕のテーマではありません。
理科教師集団が中心になってやって欲しい事柄です。

> >環境教育においても基本はおなじです。僕が恐れるのは「頭でっかち」や「洗脳」
> >だけです。そして、この点について、今までの学校教育が配慮してきたとは思わ
> >れないので、環境教育でも同じようなことが繰り返される可能性が高いと思って
> >いるわけです。
>
> なるほど。私は、「頭でっかち」や「洗脳」が、そんなに悪いことだとは
> 思えない(もしそれだけで終わるなら、それはアホであって、違う概念です)、
> (もっと、子供の能力を信頼して、評価したいから、安心しているのですが)、
> です。

う〜ん、やはり、【299】の立場から180度旋回した感じですね。

それはともかく、水野さんが信頼する「こどもの能力」は何ですか?

また、「頭でっかち」や「洗脳」を行う必要がある、のは何故なのでしょうか?

> >思春期を境に、子供の世界はがらっと変わります。自己反省に基づく批判精神も、
> >この時期に生れます。ですから、この時期以降なら、何を教えても「洗脳」とい
> >うことにはなりません。
>
> それは理解出来ます。でも、小学校のころは、基本的に洗脳(でもそれは自分の
> 世界を広げて、わかることが増えていくので、楽しいハズ)だと思います。
自分の世界を広げることは「洗脳」を経ずに可能だと僕は思うわけです。「いい
子」は作って欲しくない。でも、水野さんは「いい子」好みだからなぁ、、、す
れ違いますね。

> 個別的具体的な知識の獲得過程で、いろいろな言葉を知っていくことは、
> (批判できるようになる以前の問題として)基本的に重要であると思います。
>
> そうして、おとなと、だんだん、話しが出来るようになっていくわけですね。
ここは全くその通りです。

> >・・・これは芸術教育でも似たような側面がありますね。こどもが絵を描く。教
> > 師が、教室や廊下に張り出して、金賞、銀賞、銅賞などの評価をつける。
> > そうすると、こどもは、どういう作品が「いい」作品なのかが分かります
> > が、その「いい」というのは、教師の美的センスなり何なりの基準でしか
> > ない。だけど、こどもは、その評価をみて、あぁ、どうして僕は「いい」
> > 作品がかけないんだろう、と悩む。
> >
> > つまり、教師の評価にあわないこどもにとっては、、絵を描くことをそも
> > そも嫌いにさせてしまっているのが図画教育ということになります。
>
> これは、評価の問題ですが、ぎゃくに、そんなことで、悩まない子供も
> いると思います(例えば、うちの子がそうです^^;;)。

悩まないこどもがいるのは理解できますが、僕の論点はそこにはありません。
嫌いなこどもを作るだけなのに、なぜ、芸術科目で評価する必要があるのか、と
いう点が問題なのです。

> 自分の人生なのだし、もっと子供もたくましい、と思います。いろいろな
> ところから、いろいろなことを学んでいますよね。でもそれを、「考え」させ
> られるのは、教師だと思います。

人間は考える葦ですから、、、考えることを「強制」しなくても、考える意欲を
失わせる材料を除くことで、こどもは自由に考えます。教師は、別の視点を提供
するなどして、こどもどうしの議論を活性化してくれればよいでしょう。

・・・考えることをこどもに奨励することでは、水野さんと僕とで一致していま
す。その奨励における方法論が全く逆なのです。

水野さんは教師なり教材の価値観にあわせて「考える」ことを奨励してい
るようです。僕はそれはいけない、と主張します。

また、水野さんは、放っておいてはこどもは考えない、と考えますが、僕
は、放っておいても興味を抱くテーマなら自発的に考える、と考えます。

「こどもの逞しさ」の一つは、考えること、でもあるように思いますが?

> 子供が大人のコピーになろうとすること、自体は、自然なことだと思います。

どういう意味かつかみかねますが、こどもが伝記上、あるいは現存のヒーローに
憧れて、そのようになりたい、と思うことは自然でしょう。

でも、それと、小学校教育における思想的洗脳とは問題が全く異なるように思い
ます。

以上、対立点がかなりはっきりしてきたようですね。

後藤 健
=========================
帯畜大 生物リズム学 Phone (& Fax): 0155-49-5612

☆ 「生命を考える」(玄関)
    http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms
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    http://sv2.humeco.m.u-tokyo.ac.jp/bluesky2.html


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