[BlueSky: 348] Re:346 RE:238 小学生に環境問題をどう教えるか?


[From] ymizuno@yo.rim.or.jp (水野義之 (Y.Mizuno)) [Date] Mon, 9 Aug 1999 00:13:45 +0900

後藤さん、青空MLの皆さん、水野@京都女子大です。

私と後藤さんは、なんだか、意見がありませんが、それでも、
割合に重要な論点でずれているようにも思いますので、もうちょっと
続けさせてください。

At 18:05 1999.08.08 +0900, Ken Goto wrote:
>> 私の意図は、小学生だからといって、レベルを落としてはいけない、
>> というようなことです。というか、(本当は)難しいことを、易しく話して
>> わかった気にさせるのが、教師の力であり、役割であると思う、というような
>
>一連の水野さんの御発言から↑のことは理解しています。ただ、了解はしていな
>いのです。
>
>「(本当は)難しいことを、易しく話してわかった気にさせる」のは、まさしく
>「頭でっかち」をつくることではないでしょうか?

いえ、(小学生であっても)、わかった、と思えることは、幸せなことだと
思いますが...。

>
>大量の落ち零れが出ている時代に、そして、教師の全体的力量も低下しているか
>もしれない時代に、学習レベルを下げない、とはどういう意味でしょうか?

大量の落ち零れが出ている時代、というのは、私の直観的には、間違いで
あると思っています。おそらく、ちょっと増えている、という程度でしょう。
自殺者が増えている、というのと同じですね(私の直感では)。

もっと、子供たちも、先生も、しっかりしているはずです(直感ですが)。
管理的発想をすると、先生も、とたんに「だめ」になると思いますが。
学習レベルを下げることは、基本的に、間違っていると思っております。

>
>「できる子」は放っておいても自分で勉強します。でも「できない子」はついて
>いけません。学習レベルを下げたら、それ自体としては「できる子」は退屈しま
>すが、例えば、「できる子」が「できない子」を教える側にまわれば、和気あい
>あいの授業風景になり、かつ、どちらの側にとってもプラスの効果があります。

人間は、そんなことで、コントロール出来るとは思えませんが。どんなに
易しくしても、サボる子はさぼります。低きに流れてはいけないと
思いますが。

いい例は、私立大学における、入試科目数の減少とその結末(学生が
高校時代に勉強をしなくなっている)です。易しくすることによる弊害が、
ここにもあるのではないでしょうか?

また、「できる子」が「できない子」を教える側にまわれば、ということは、
レベルを下げることで実現されるとは思いません。人間の行動というのは、
もっと複雑(というか、どんなにレベルが低くても、やっぱり勉強をサボって
安易な姿勢で遊ぶのがすき、というか)だと思いますが。


>分数計算などの算数に限って言えば、大半の子が小学生段階でドロップアウトし
>ているのです。仮に計算できていたとしても、小手先でできている。しっかりと
>理解できていれば、一生忘れるものではありません。大学生が算数できないのは、
>「頭でっかち」教育の、比較的軽い弊害の一つですね。

まったく違うと思いますが。受験科目の減少が、原因です(要するに、
あまやかされていること、だからサボるわけです。さぼっても許される
からですね。あたりまえなのでは?)。

>
>・・・なぜ、比較的軽いか、そこには「思想問題」が全く関係しないからです。
> でも、社会科関係であれば、何度も言うように、頭でっかち的教育は「洗
> 脳」以外のなにものでもありません。

教育とは、本質的に、「洗脳」ではありませんでしたか?
そこで終わっていれば、それは、問題ですが。でも自分で考え始める
というところは、ご指摘の通りですし、そこですくわれますよね。
最初は、何でも「まね」をするところから、始まると思いますが。
そしてそれは、(学びの方法としては)悪いことではないと思いますが。


>僕は、小学生のこどもが、環境問題に心を痛めて欲しいとも、原爆や戦争を悲し
>んで欲しいとも、思いません。この時期に必要なのは人間愛の養成、集団的正義
>の養成なのです。後は本人の社会的自覚(思春期)を待てばよい。

人間愛の養成、集団的正義の養成、ということが、学校教育で、出来ると
お考えでしょうか? それはそれこそ、学校に入る前に、遊びの中で、学ぶ
べきことなのではないでしょうか?

3歳の子供でも、環境問題に心を痛めています。小学生でも、原爆や戦争を
悪いことだということについて(それは、ご指摘の通り、そう教えられる
からですが)、考え始めていると思います。でも、感覚的なのです。
それを(なんとか)考えさせるのが、先生の役目だと思いますが。
それは教師の適切な設問と指導によって、実現されると思いますが。
見事な話が出来る先生もおられると思います。

学校の役割って、なんなのでしょうね? 


>「できる子」は素晴らしい言葉を吐くかもしれません。でも、僕はそれを(それ
>自体としては)信用していません。「頭でっかち」である可能性があるからです。

本人も、自覚していると思います。でも、自覚は、出来ていると思います。
だから、それを克服しようとすることでしょう。

>
>> 繰り返し登場することの意味は、その度ごとに理解が深まること、復習の機会を
>> 与えることになること、落ちこぼれからの回復の機会でもあること、など、
>> 積極的な意味があって、文部省の全体の方針も、そういう形になっているはず
>
>水野さんの御意見は、落ち零れをつくることを承認したうえでの話のようですね。

そうです。それをなくすことはなど、出来るとは思われません。

>また、本当に理解しているなら、復習など要りません。

いえ、必要だと思います。本当の理解(とその時、思ったこと)なんて、
実はいいかげんなものだと思いますが(というか、理解は、いくらでも深まる
ものだと思いますし、そこが面白いのだと思いますが)。

...なんだか、ずいぶん、学習イメージが違っていますね。
それ自体、面白い現象です ^^;;;


> て、いざとなれば高校数学を使えるかどうか、これはひとえに本当に理解
> していたかどうかの一点にかかっています。

本当に理解していなくても、使える、ということはいくらでもありますよね?


>楽しいことだらけの小学生生活を僕は送りましたが、何か苦痛を感じないといけ
>ない、ということですか?

苦痛を感じてはいけないのでしょうか? 苦痛、というよりは、ちょっと我慢
すれば、わかるものを、と思うのですが。


>祖父・祖母の昔話を聞いておく、というのは貴重な財産になるでしょう。
>でも、それをまとめる過程で、「教科における評価」という重い足枷がはめられ
>ます。それによって、「感動的な」はなしも出来上がるわけです。

そうですね。読書感想文のばからしさ、のようなものを、想定しておられる
と思います。でも、そういう学習過程を、ばかにしてはいけないと思いますが。
例えば、「どうすれば、人を感動させられるか」、という、貴重な勉強に
なるかもしれないのでは?


>・・・しかし、それは「教科のもつ価値観」に完璧に符合している、というだけ
> の話でもあるように思うのですが、どうでしょうか?

完璧、という言葉は不要と思いますが、「教科のもつ価値観」がそんなに
無意味とも思いません。またそれに符号させられることも、無意味とも
思いませんが。


>論理的思考力の訓練の場はたくさんあります。算数学習もその一つですが、集団
>遊びの中でも培われていきます。また、小学校の授業にこどもどうしの議論の機
>会を増やすこともいいでしょう。

そうですね。


>理科に興味を向いてもらうには、やはり、こどもの等身大の理解レベルでの教材
>が必要でしょう。面白ければ、こどもは関心を示します。

例えば、それは、どういうものでしょうか?


>環境教育においても基本はおなじです。僕が恐れるのは「頭でっかち」や「洗脳」
>だけです。そして、この点について、今までの学校教育が配慮してきたとは思わ
>れないので、環境教育でも同じようなことが繰り返される可能性が高いと思って
>いるわけです。

なるほど。私は、「頭でっかち」や「洗脳」が、そんなに悪いことだとは
思えない(もしそれだけで終わるなら、それはアホであって、違う概念です)、
(もっと、子供の能力を信頼して、評価したいから、安心しているのですが)、
です。

>
>思春期を境に、子供の世界はがらっと変わります。自己反省に基づく批判精神も、
>この時期に生れます。ですから、この時期以降なら、何を教えても「洗脳」とい
>うことにはなりません。

それは理解出来ます。でも、小学校のころは、基本的に洗脳(でもそれは自分の
世界を広げて、わかることが増えていくので、楽しいハズ)だと思います。

個別的具体的な知識の獲得過程で、いろいろな言葉を知っていくことは、
(批判できるようになる以前の問題として)基本的に重要であると思います。

そうして、おとなと、だんだん、話しが出来るようになっていくわけですね。


>しかし、思春期が実りある時期になるためには、思春期以前の生活体験が極めて
>エッセンシャルに効いてくるはずなのです。三つ子の魂百まで、ではありますが、
>三歳期以降、思春期までも、三歳期までに次ぐ重要性をもっているでしょう。こ
>の時期に大切だと思うことは散々述べてきたように思いますが、今の文脈で言う
>と、人間愛を養成すること(まぁ、集団訓練を積め、というだけの問題ですが)、
>また、狭い世界ながらも自分の等身大の思考力で考える訓練なのだ、と思うので

はい、その通りだと思います。

>
>何度も言うようですが、僕は小学生時における環境教育を否定しているわけでは
>ありません。ローカルな題材からグローバルな題材まで興味をもってもらえる題
>材はたくさんあるでしょう。
>
>ただ、教師の価値観で評価してはいけません。この場合には、明らかに教師に
>「あわせる」からです(あわせない頼もしい子供もいますが)。そして、教師が
>こどもを成績評価しないということは、とても難しいことなのです。自己の価値
>観に近いものが「好きになる」のは人情だからです。環境問題が全人格的な問題
>で、思想性が絡んでくるために、僕は、この「あわせる」過程のもつ危険性をど
>うしても恐れてしまうわけです。

なるほど。よくわかります。

ご指摘の問題をもうちょっと考えて見ます。

>
>・・・これは芸術教育でも似たような側面がありますね。こどもが絵を描く。教
> 師が、教室や廊下に張り出して、金賞、銀賞、銅賞などの評価をつける。
> そうすると、こどもは、どういう作品が「いい」作品なのかが分かります
> が、その「いい」というのは、教師の美的センスなり何なりの基準でしか
> ない。だけど、こどもは、その評価をみて、あぁ、どうして僕は「いい」
> 作品がかけないんだろう、と悩む。
>
> つまり、教師の評価にあわないこどもにとっては、、絵を描くことをそも
> そも嫌いにさせてしまっているのが図画教育ということになります。

これは、評価の問題ですが、ぎゃくに、そんなことで、悩まない子供も
いると思います(例えば、うちの子がそうです^^;;)。

だから、評価を否定しなくてはいけない、という風にはならないように
思うのですが。

同様に、教える、ということを、それほどまでに、否定的に捉えることも
ないと思いますが。

自分の人生なのだし、もっと子供もたくましい、と思います。いろいろな
ところから、いろいろなことを学んでいますよね。でもそれを、「考え」させ
られるのは、教師だと思います。

子供が大人のコピーになろうとすること、自体は、自然なことだと思います。


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Y.MIZUNO 水野 義之 (大阪府 茨木市)
http://www.rcnp.osaka-u.ac.jp/~ymizuno/
==> Kyoto Women's Univ. http://www.kyoto-wu.ac.jp/
Tel/fax: 075-531-7104 mizuno@kyoto-wu.ac.jp


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