[BlueSky: 318] Re:307 RE:238 小学生に環境問題をどう教えるか?


[From] ymizuno@yo.rim.or.jp (水野義之 (Y.Mizuno)) [Date] Fri, 6 Aug 1999 11:09:44 +0900

後藤さん、フライブルクの池田さん、ドイツの細谷さん、多田さん、みなさん、
水野@京都女子大です。

At 16:00 1999.08.05 +0900, Ken Goto wrote:
>水野さん【299】:
>> だから学校でやってほしいことは、ご指摘のように、みかけ上の「いい子」
>> を増やすのではなく、そういう「背伸び」「頭でっかち」的知識や実践の
>> 内容のなさ、根拠のなさ(不安材料の蓄積をしても、仕方がないということ)
>> に早く、気が付いてほしい、というようなことです。
>
>そのためにはどのような方法論が有効か、ということが最も重要な問題となりま
>すね。

環境問題というのを本当に理解するにはかなり高度の知性を必要とする、という
ことを、米本さんだったかが、言っていたと思いますが、そういう高度の
社会認識であるところの環境問題を、子供の発達段階を見ながら、どうやって、
教育課程として、問題をブレイクダウンして組み替えていくといいのか、という、
さらに高度な(と私には思われます)問題である、というご指摘であるように
思います。

おそらく、これ(小学生に環境問題をどう教えるか?)はまだ(その難しさに
比しては)よく理解されていないのではないか、という気がしますね。

だいたい、我々自身がまだその答えを持っていない問題であるわけですから。

でも、私は人間の、というか子供たちの知性には期待できると思っていて、
我々が(というか、少なくとも学校が)やるべきことは、教師が理想を語ること、
その方向を具体的に見せてやること、であるような気がしています。

今日8月6日の、広島の子供代表の、小学校6年生の言葉を聞いていても、
私は、とても感動しましたね。問題をよく知らなければいけない、という
ことも明確に自覚が出来ていて、立派なものだと思いました。

問題の解決には、まず問題をよく理解すること、そのためには、まず問題を
知ること、というわけですが、何が難しいのか、ということを、大人は
はっきりと言葉にして、子供たちに、語るべきだと思うのです。不安を、では
なく、論理を、です。彼らは、何を言われているのか、必ず理解出来る、
のではないか、と感じるのですが。


>算数そのもののオチコボレが2,3年生のうちに続出するでしょう?
>算数の問題を解くのに、世間のことは一つも知らなくてよいから、実は、腕白小
>僧にとっての「勉強」としては、一番とっつきやすい筈のものだ、と思うのです。
>論理的な思考訓練にもなるし。
>
>でも、大半の子が、ついていけなくなってしまうのです。

勉強すれば出来るようになる、という意味では、そうだと思います。

でも社会にはこういう(定量的に考えなければならない)問題がある、
ということを、環境問題に関係する教育課程にも含めることは出来るのでは
ないでしょうか?

例えば、ですが、物理学に、シュテファンボルツマンの法則、というのがあって、
これは、熱せられた物体から出る、光のスペクトルの周波数分布の式が、
どうなる、という法則です。

かつて、それは、製鉄所の溶鉱炉の中の温度を、光のスペクトルの測定から
逆算するために必要であった、として、物理学の教科書には書いてあります。
(そこから、例の量子力学、というかエネルギー量子の発見もあったわけで、
物理学の基本中の基本です。)

しかし、同じ法則が、実は、地球環境問題(地球の温度が何度になるかを計算
出来ますが、その時に、必要になります)にも関係している、わけでして、
今、教科書を作るとすれば、むしろ、そちらを教材として、採用することに
なるでしょう。(ちなみに、この例は、神戸大学のえびな先生との話しで
私が彼から学んだことですので、ご紹介します)。

小学校でのことでいえば、このような「興味の変化」に対応するのは、
例えば、総合学習の時間(というのでしたね?)の中での算数、というような
ことかもしれません。

あるいは、まず、先生の研修(といっては失礼ですが、研究会とか、実践
とか、あるいはこういうMLに参加することも私は素晴しいと思いますが)
から始める方が、早いのかもしれません。

なんというか、先生のものの見方、メディア関係者の勉強、そういうものの
レベルアップが非常に重要だと思います。


> つまり、思春期は、こどもが大人に成り代る転換期ですから、全体社会の
> 中での自己の位置を客観的に評価したくなり始めるのではないか、と思う
> のです。生物学にとって、大人の人間とは、性的な成熟であり社会的な成
> 熟で、、、人間社会では、後者(少なくとも経済的自立)が、社会の重層
> 的な複合化のために遅れつつあります。が、社会的意識としては、立派な
> 大人気分となるのです。
>
> ・・・社会正義に対する目覚めがなければ、思春期における「反抗期」と
> は何なのでしょうか?

自分、というものを、きちんと認めて欲しい、という欲求ではないでしょうか?
社会性があってもなくても、それは起こる現象であるように思いますが、
どうなのでしょうか? あるいは、社会批判、大人社会の批判を始めたり
しますから、後藤さんのご指摘のような現象かもしれません。

ただ、これも時代の影響を強く受けているようにも思えます。

いずれにしても子供の発達段階をふまえて、教育を考えなければ、という点
では、一致していますね。^^;;


>それはさておき、「こどもらしく育つ」ということの中で見逃せない点は、集団
>遊びを通じて「ちいさな集団」の中での正義を習得する、ということです。
>
>・・・これが、今の子どもたちに不足がちになっている、というのが僕の一貫し
> た主張です。
>
>ちいさな集団ではあっても、こどもはそこで、友達どうしをお互いに認め合う訓
>練を行います。つまり、人間に対する愛情をそこで培うわけです。これが、「十
>分な準備」の不可欠の一要素です。

そうだと思いますね。だから、兄弟姉妹の数がすくないなんて、反社会的行為
であるとさえ思っているのです(冗談です)。ちなみに、私は、夫婦の場合、
子供一人では学ぶ場所が少なくなる、2人なら「関係」を学ぶ、3人なら
「社会」を学ぶ、というふうに思っていて、...別に押し付ける積もりは
ありませんが。



>環境教育にとっての最も重要な問題は、こどもの生きる要求に密接に関わった問
>題として受け止めてもらえるかどうか、に尽きると思います。
>
>あとは、好きこそ物の上手なれ、でこどもの学習意欲の赴くまま。

この学習観、基本的に、賛成です。でも主張を持った教師であってほしい、
ということも、同時に、思う分けです。それが子供たちに、生きる勇気を
与える(その一つとして極めて重要)と思います。ロールモデル論ですね。


>> で、グローバル感覚とか、定量的な問題の難しさ、とか、ネットワーク感覚
>> とか、そういったことを、具体的、個別的な事例を通して、小学生にも理解
>> させることは出来るのではないか、というのが私の主張です。(だから

>このあたりのことは僕もよく分かりませんが、例えば、グローバル感覚を理解し
>たような小学生をみたら、何か寂しさを感じてしまうかもしれません。僕が牧歌
>的すぎるのかもしれません。
>
>学校教育はただでさえ「上からの教育」となりがちです。ここを打破できるなら、
>自然な学習が可能です。環境問題が「社会科」的な側面が強いだけに、「上から
>の教育」(あたまでっかち)にならないような格別な配慮が欲しい、というのが
>僕の願いです。自発的な学習姿勢を認めて始めて、環境問題が主体的な問題とな
>り、したがって、環境問題に対して自由意志に基づく思考と判断が可能になる、
>と思うわけです。

上から、というのではなく、上から見る視点を学ぶことができる、横の人、
それが、先生(そうあって欲しい)、という感じがします。子供の好奇心
(これは誰でも持っていますよね)を、伸ばせるような、なにか、本物で
感動させてくれるような、そういう先生ですね。

インドの詩人のタゴールが、「自分で(いつも)学んでいない人は、人に
教えることは出来ない」、というようなことを言っていましたね。

自由、といっても、ほっておくと、だらけるのも、また人間(子供)
という面も、認める必要があると思います。

私は、小学生というのは、大人のコピーになろうとする(例えば、まず
親のコピーを目指す)傾向が強くて、それはそれで、生物(動物)として
自然なことだと思うのです。

でも、やはり、ご指摘のように、自発的な学習姿勢を認めることは大事
だと思います。



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Y.MIZUNO 水野 義之 (大阪府 茨木市)
http://www.rcnp.osaka-u.ac.jp/~ymizuno/
==> Kyoto Women's Univ. http://www.kyoto-wu.ac.jp/


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