[BlueSky: 3158] Re:3152- ミーム


[From] Ken Goto [Date] Mon, 19 Mar 2001 15:52:03 +0900

後藤@帯畜大です。

須賀さん【3152】:
> そうですね。で、過去はどうあれ、今できることとして
> 僕はあの本のひとつのよみかたを示唆したつもり
> なのです。過去にどうよまれたかについては著者でない
> 僕には責任をとりようがありませんからね。
もちろん、須賀さんに責任があるわけじゃない。ただ、ああした本に対
するスタンスをどうとるのか、といった点についてはいろいろ考えるこ
とがあるだろうな、と。

> もう一点、ドーキンスの本への批判が、まじめな行動
> 生態学者(そのなかには立場のよわい大学院生など
> もふくまれる)への政治的なハラスメントへとひろがる
> ことを僕は懸念しています。
それはないでしょう。
僕はこれまで行動生態学の枠組みについて批判したことは一度もありま
せんよ。ドーキンスの本は、行動生態学の啓蒙書にもなっておりますが、
それ以上のものを含んでいるのです。一口にいうと、ドーキンス思想の
本なのではないかな?↓に引用させてもらった須賀さんの文章のところ
で、ドーキンスのオリジナルを述べておきました。

あと、何度も述べるように、日常社会と接点をもつ言葉を特殊な意味合
いで用いたわけでしょう?その用法がうまく(?)ヒットして、多大な
る関心をひきつけたわけでしょう?でも、それが一つのイデオロギーを
作りうる領域であることは須賀さんは充分ご存知でしょう?酒の肴にし
て遊ぶ分にはいいのですが、それを超えた力をもっていることは、この
間のスレッドでも明らかですしね。そうしたことを避ける責任が学界に
はある、と僕は思っています。そして、その責任を果たす一歩は、行動
生態学学界内部での用語法の再検討ではないか、と思っているわけです。

・・・僕が、この間に使ってきたのは、進化的に利己的な遺伝子、とい
うやや陳腐な言葉ですが、もっと簡潔にに表現できる言葉がある
だろうと思います。それでも、ことがらの「どの」側面を指して
いるのかに注意を喚起できるのではないか、と思います。また、
同時に、そうすれば、逆説めいた驚きに由来するインパクトはか
なり低減しますから、酒の肴にするほどのものじゃなくなる(日
高さんのあのあとがきなんか、調子に乗りすぎです)。それが学
問的実体であろう、と思うのです。もちろん、学問的にはとても
興味ある分野ですから、若い研究者も参入してくるので問題はあ
りません。

> 『利己的な遺伝子』は一般向けの本ですよね。ウィリアムズの
> 批判やハミルトンの理論をわかりやすく面白いたとえをつかって
> 説明するというのがドーキンスの意図だったのではないでしょうか。
> 僕は大学生のときそのようにしてこの本を紹介されました
それは違いますね。
淘汰原理にしたがう自己複製子と、その乗り物で「しか」ない生存機械
という枠組みを与えたこと、そして、これまでの個体を単位とした淘汰
から遺伝子を単位とした淘汰という枠組みを徹底させたこと、さらに、
ミーム概念を導入することによって、文化的進化を生物進化のアナロ
ジーによって研究することを可能(であるかのように、か?)にしたこ
と、が主な「功績」として印象に残りました。

また、昨日のメールに引用した件の冒頭を読めばわかりますが、読者と
しては三種類を想定しています。一般、専門家、行動生態学者の未受精
卵。

> > でも、僕が問題にしているのは、社会生物学の学界レベルでの共通見解
> > じゃないんですよ。この理論の社会的受容過程において、「異次元のこ
> > とがらの同格化」が行われてきた、という点なのです。【3095】で
> > 指摘したとおりです。そして、この同格化が、ドーキンス自身の文章に
> > も見出される、としたのです。
>
> なるほど。じゃあそれを説明すればことは足りるわけですね?
そうです。それを説明してきたつもりですけど?
でも、当初は、末尾にも書きますが、乗り物観的思想に対する批判とし
てはじめたものでした。

> > えっと、創造者に対する反逆に関する一節ですよね?
> > 学習が反逆ですと?そしたらなぜ、「唯一われわれだけが」なんでしょ
> > う?えっ?ここは文学的レトリックですって?
>
> 「学習」でなくて「知能」にもとづく行動です。
> 単にひとまねや過去の経験にたよるのではなく、
> 新しい状況ですじみちをたてて問題の解決をおこなう
> ということです。知的な「創造」もそのにはふくまれる
> でしょう。
なるほど、技術や、芸術、文学的創造、すべてを含んでいるわけですね。
それならわかります。
・・・蛇足ながら、犬だって、筋道を立てて問題の解決をおこなってい
る、と思いますよ。猿なら、なおさらでしょう。

> > いやぁ、僕は、反逆できるとは思っていませんよ!
>
> 後藤さんは「反逆」ということばがおきらいなんですね。
いえ、そのようなことは断じてないですよ。
ドーキンス思想に反逆してきたでしょう?

> 僕には過剰反応と思えますがこれをおしつけるつもりは
> ありません。僕はこの「反逆」を「知能」や「創造」と読んだ
> ということをおつたえしたかっただけです。
はい。どうも有難うございます。
・・・ここも蛇足ですが、知能や創造は、人間だけの特権ではないです。
技術や芸術などは人間的創造として捉えてほしいなぁ。創造は、
組換えですから。もちろん、知能は鳥にも哺乳類にもありますよ
ね。
過剰反応は、いわば行動生態学者への挑発、と考えてください。↑に述
べた期待をもってみているものですから。もちろん、ドーキンス思想に
傾倒している方々には、もう少し考えてみるかなという姿勢への契機に
してもらえれば、などとも思ったわけです。

> > また、ダーウィニズムの拒絶を人生規範にしているようですが、本当に、
> > ダーウィニズムに拒絶できると思っているのでしょうか?自然法則には逆ら
> > えないはずなのですが。「社会」ダーウィニズム(人間社会は弱肉強食
> > を原理にすべきだという思想、でよいのかな?)の拒絶、というなら理
> > 解できるんですが。
>
> 後者ではないでしょうか。
だとすると、社会ダーウィニズムを指すのにダーウィニズムという用語
を用いていることになり、利他的行動も実は利己的行動なのだ、という
言い回しと五十歩百歩ですね。

識さん【3154】:
> ダーウィンさんと違って、ドーキンスさんやグドールさんは、ウォーレスさん
> と同じように敬虔なクリスチャン(宗派は知りませんが)であることを無意識に
> 表明しようとしているような気もするのですが‐‐‐
はい。「この地上で唯一われわれだけが、、、」という言い回しに、僕
も、ことさらに人間を崇高なものしてみる姿勢を感じました。ドーキン
スは無神論のはずですが、キリスト教風土の中で育ってきたわけですか
らね。そういうみかたが刷り込まれていても不思議ではない。これは、
仏教的風土の中で育ったものからすると、この一節に違和感を感ずると
いうことと全く同じですね。ただ、前にも述べたように、後者の風土は
学校教育の「おかげで」だいぶ弱くなっていると思いますけど。僕自身、
人間=崇高的なイメージを持っていた時期もあります。

須賀さん【3153】:
> > ・・・一見すると「自然法則に逆らっている」ように見える行為も実は
> > すべて自然法則に則っていると僕は思います。ただし、自然の流
> > れは変えることができます。
> >
> > 生物は物理法則に沿ったものでありながら、物理法則を超えた法
> > 則にしたがいます。しかし、決して物理法則と矛盾することはな
> > い。これと全く同じように、人間も、生物学的法則に沿いつつも、
> > それを超えた人間独自の法則性にもしたがっていますね。でも、
> > やはり、生物学的法則とは矛盾し得ないのです。自然法則とはそ
> > のようなものだ、と僕は理解しています。違うでしょうか?
>
> そう思います。僕はこの一連の話題でそのように
> 主張してきたつもりです。またその線にそってドーキンス
> の本の読み方を示唆したつもりです。
この点での意図はお互い同じようですね。ただね、ドーキンス思想と行
動生態学とは違うでしょう?行動生態学の「健全な」発展に貢献すると
いうことと、ドーキンスの本を擁護するということとは全く別ですよ。
別というより、僕の考えからすれば、↑の二つは長期的にみれば相反す
ることであるとさえ思っているのです。

まして、ドーキンスの本はドーキンス思想の本ですからね。ミームとい
う言葉の流行に関連して始まった(と記憶する)このスレッドでも、僕
が問題にした発端は、ドーキンス流の「乗り物」観に「感染」している
風潮があるかな、との印象をもったからでしたね。別に、どのような思
想を抱こうと個人の自由なのですが、その乗り物観がものの一面を誇大
視した見方である、と批判することは個人の自由を侵しませんので、僕
なりに「反逆」したつもりです。

どうも有難うございました。

後藤 健
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