[BlueSky: 307] Re:299 RE:238 小学生に環境問題をどう教え るか?


[From] Ken Goto [Date] Thu, 05 Aug 1999 16:00:30 +0900

水野さん、青空MLの皆さん、
              後藤@帯畜大です。

水野さん【299】:
> ただ、私が感じていることは、環境問題に関する知識は、マスメディアとか
> 子供向けのまんが、大人の会話等でどんどん入っていて、もう「頭でっかち」に
> なっていると思うのです。でもそれは断片的な知識に過ぎないのではないか。
確かに、その通りですね。
特にテレビからたたき込まれる情報は、こどもたちの世界観を左右するほど大き
いものなのでしょうね。それが「偏向」していたとしたら・・・(ま、コマーシャ
リズムが基軸ですから)・・・

・・・・家庭内でできることは、せめて、真の娯楽番組に限定するとか、親とし
ての対立見解を披露することぐらいでしょうか。全くテレビを見せない、
という家庭もありますが。

>
> あるいは、報道する側が定量的な問題把握が出来ていない場合が殆ど(メディア
> は話題性のあることしか報道しないし、出来ない)ので、そういう部分が決定的
> に欠落していると感じています。
>
> 分析のない「不安」を伝えているだけですね。だから、子供たちも、むやみに
> 自分も何かしようとするのだけれど、問題を考えた結果ではないわけです。
> 不安を植え付ける教育をしても仕方がないわけです。そして、教育の論理が、
> 一人一人が気を付けよう、という方向に収束しているように、思えます。
>
> でも、それではどうにもならないのが、環境問題ですよね(例えば、気を付け
> ない人も、必ず共存しているのが、社会です。気を付けても毎年必ず、1万人
> もの人が死ぬのが交通事故なわけです)。何か、今の教育の結果、子供たちは
> 学校で言われていることをそのまま信じているだけ、ですね。実践が、不安と
> つながっていかないわけです。
この点は、「自然観察と図鑑」の問題の構造とよく似ていると思います。学校教
育の基本的姿勢に関わってくる、とても重要な問題だと思います。

日野さん【230】とのやりとりを再録しておきます。

後藤【237】:
> このお話から僕は別のことを連想しました。つまり、こどもにとってはもちろん、
> 大人にとっても、図鑑は「権威」である、ということです。
>
> > 日野さん【230】:
> > 自然観察会などをやると、図鑑と一緒だと安心して、その後興味がなる子供群
> > というのと出会います。だから変な発見をするガキがいなくなった(少なくなった)。
> > こういう時にも「答え合わせ」の傾向が表われているようです。
>
> 僕自身は、自然の中で遊ぶことは好きでしたが、「学問的観察」には全く興味あ
> りませんでした。昆虫採集も好きでしたが、昆虫少年のような「オタク」にはな
> りませんでした。で、今でも、虫や花の名前も知らない、ダメ生物学者の端くれ
> です。
>
> カブトムシやクワガタ、或いはザリガニ、カエル、、、まぁ、ペットのような感
> 覚というか、、、詳しく知りたい!という興味をもつことは一つもなかったです。
> だから、図鑑で照合することなど殆どしなかったと思います。でも、学校の「宿
> 題」としては、照合しなくてはいけなかった。
>
> ・・・「図鑑との照合」、僕には苦痛の作業でした。
>
> で、なにが言いたいか、というと、個々のこどもにはそれぞれに個性的な「興味」
> 「問題関心」があるので、別に「図鑑と一緒だと安心して、その後興味がなくな
> る子供群」がいても、その限りでは、問題あることではないのではないか、とい
> うことです。

これと全く同じように、農業実践を環境教育に取り入れることに同意しつつも、
なお、

後藤【296】:
> この意味で、農業実践と食の問題は、とても有意義なテーマであるように思いま
> す。校舎の周りを自分たちの農場で囲ったら楽しい感じがします。
> ・・・僕が子どもだったら、農場を荒らしちゃうかもしれませんが。

と、僕が言ってしまうことの真因も、ハミダシモノやオチコボレが出ることは
現実の学校教育の中では避けられないけれど、ハミダシモノやオチコボレにも
「主張」があるのだ、ということを理解してもらいたい、という点にあります。

でも、学校教育は「よい子」を作る場となってきたから・・・という学校教育の
矛盾を踏まえないと、、、どうも釈然としないものが僕の頭の中には残ってしま
うのです。

水野さん【299】:
> だから学校でやってほしいことは、ご指摘のように、みかけ上の「いい子」
> を増やすのではなく、そういう「背伸び」「頭でっかち」的知識や実践の
> 内容のなさ、根拠のなさ(不安材料の蓄積をしても、仕方がないということ)
> に早く、気が付いてほしい、というようなことです。

そのためにはどのような方法論が有効か、ということが最も重要な問題となりま
すね。

> 子供たちは、人類は(地球は)そのうち、滅びるんではないか、という
> 漠然とした不安を持っていますね。
いやぁ・・・僕も、そのうち悲惨な大戦争が繰り広げられるのでは、、、と漠然
とした不安を抱えています。

> 学校でやるべきことは、それを「考えられる」、ということだと思います。
> つまり、考えるための「言葉」と「論理」を与えてやること、だと思うのです。
> 問題のイメージはもう十分に植え付けられているのではないか。
>
> そうすると、問題を語るための言葉は、まず問題の定量的な把握(数字)です。
> そしてその数字の意味を把握すること。
>
> 。。。と、やはり小学生には難しいでしょうか? ^^;;;

算数そのもののオチコボレが2,3年生のうちに続出するでしょう?
算数の問題を解くのに、世間のことは一つも知らなくてよいから、実は、腕白小
僧にとっての「勉強」としては、一番とっつきやすい筈のものだ、と思うのです。
論理的な思考訓練にもなるし。

でも、大半の子が、ついていけなくなってしまうのです。


> >集団訓練(人間的コミュニケーションの養成)をつめば、人間は、性に目覚める
> >頃、自発的に(より広範的な意味での)社会正義にも目覚める、と、(少ない個
> >人経験、及び人間の生物学的特性に対する考察から)考えるのです。
>
> これはおっしゃることはわかりますが、人間が最初に目覚めるのは、まず、
> 「自分のこと」ですよね?自分とは何か、ということを考え始めるわけです。
> その上で、社会正義に目覚めるには、私はかなりの訓練が必要であるように
> 思うのですが。

僕が性に目覚めた時、自分とは何か、社会正義とは何か、という問題は同時に問
題となりました。中2ぐらいかな?

・・・中1までは、全く世間知らず(まぁ、、、今でもそう言われても仕方ない
側面が強いのですが)。理科にも社会科にも(勉強はしましたが)全く興
味を感じませんでした。

それが、性に目覚めた頃、突如として、社会問題についての関心を深めた
のです。理科に関心を深めるのは、もっとずっと後でした。

僕の場合を特殊例と考えることもできますが、思春期という特別な時期の
もつ生物学的機能を考えると、むべなるかな、とも思っているわけです。

つまり、思春期は、こどもが大人に成り代る転換期ですから、全体社会の
中での自己の位置を客観的に評価したくなり始めるのではないか、と思う
のです。生物学にとって、大人の人間とは、性的な成熟であり社会的な成
熟で、、、人間社会では、後者(少なくとも経済的自立)が、社会の重層
的な複合化のために遅れつつあります。が、社会的意識としては、立派な
大人気分となるのです。

・・・社会正義に対する目覚めがなければ、思春期における「反抗期」と
は何なのでしょうか?

・・・いずれにしても、この部分は、個人的経験に強く依拠した見解であること
は確かです。

> >・・・で、「こどもらしく育った」あとに、思春期に悩み、、、はじめて、視野
> > を広い社会に向ける十分な準備が整う、と思うわけです。
>
> その間に、もう一ひねり、必要なような気がしていますが。。。

水野さん御自身のケースではどうだったのでしょうか?

それはさておき、「こどもらしく育つ」ということの中で見逃せない点は、集団
遊びを通じて「ちいさな集団」の中での正義を習得する、ということです。

・・・これが、今の子どもたちに不足がちになっている、というのが僕の一貫し
た主張です。

ちいさな集団ではあっても、こどもはそこで、友達どうしをお互いに認め合う訓
練を行います。つまり、人間に対する愛情をそこで培うわけです。これが、「十
分な準備」の不可欠の一要素です。

この準備がなければ、どこでどうあがこうと、「よい子」の反戦思想、みたいな
もの、つまり「あたまでっかち」ができるだけ、と僕は判断するのです。


> >だから、ローカルな課題でローカルな実践に「閉じて」いた方が、思春期前の段
> >階ではむしろ好ましい、というのが僕の考えですが、いかがでしょうか?
>
> う〜ん、どうなんでしょうか? ローカルな課題でローカルな実践のはずが
> 実は開いている、という感覚、繋がっているという感覚は、持たせられると
> 思うのですが。

ここは、全くその通りですね。

>
> 例えば、今夜のおかずのエビはどこからきたの?とか、中国の一人っ子
> 政策を批判するのは簡単だけれど、食糧の肉食化が進んでいることを
> 考えると、あれだけの人口を養うには世界の食糧問題にまで影響が
> あるんだとか。マクドナルドのポテトチップのじゃがいもはどこから来たの、
> とか、それが実はポストハーベスト農薬の問題で国際的な(WTOなどでの
> 規制値などで)問題になっているんだとか。
>
> こういう問題意識は、もっと先のことでいいんでしょうか???
授業展開に任せればよい、といったら叱られるかなぁ。
・・・もちろん、御指摘の話は、小学生にも理解できると思います。

環境教育にとっての最も重要な問題は、こどもの生きる要求に密接に関わった問
題として受け止めてもらえるかどうか、に尽きると思います。

あとは、好きこそ物の上手なれ、でこどもの学習意欲の赴くまま。
そのこどもが間違って学んでも、いずれ、社会的に修正される。

水野さんがこどもに対して高度な水準を要求をしているとすれば、僕は、こども
の理想論を語っているかもしれません。

> 私は、小学生への教育目標というのは、具体的個別知識の獲得を支援する
> ことであると思っています。物理でいえば、現象論をやる段階ですね。
> その面白さ、といったらいいのか。そういうことをたくさん、学んでほしい。

理科の問題解くのを面白いと感じた記憶はありませんが、音叉の共鳴などは面白
かったです。

> で、グローバル感覚とか、定量的な問題の難しさ、とか、ネットワーク感覚
> とか、そういったことを、具体的、個別的な事例を通して、小学生にも理解
> させることは出来るのではないか、というのが私の主張です。(だから
> もちろん、間違っているかもしれません^^;)
このあたりのことは僕もよく分かりませんが、例えば、グローバル感覚を理解し
たような小学生をみたら、何か寂しさを感じてしまうかもしれません。僕が牧歌
的すぎるのかもしれません。

学校教育はただでさえ「上からの教育」となりがちです。ここを打破できるなら、
自然な学習が可能です。環境問題が「社会科」的な側面が強いだけに、「上から
の教育」(あたまでっかち)にならないような格別な配慮が欲しい、というのが
僕の願いです。自発的な学習姿勢を認めて始めて、環境問題が主体的な問題とな
り、したがって、環境問題に対して自由意志に基づく思考と判断が可能になる、
と思うわけです。


後藤 健
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帯畜大 生物リズム学 Phone (& Fax): 0155-49-5612

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