[BlueSky: 2972] Re:2954.2953 血縁淘汰・互恵的利他性


[From] Ken Goto [Date] Sat, 24 Feb 2001 14:29:43 +0900

後藤@帯畜大です。

葛貫さん【2954】:
> 【2943】の
> > 「産まない選択」をするということが、生物としてどういう
> > ことを意味しているのか、
> は、(ありもしない)遺伝子の意志を実行しなくていいのかい、
> と問おうとしていたことに気がつきました。
> 「利己的な遺伝子」「血縁淘汰」や「互恵的利他性」という言葉
> の字面が与えるイメージを使って、社会を操作するようなことは
> してはいけませんね。済みませんでした m(_ _)m。
とても重要なポイントですね。
さて、では、「遺伝子の意志」が「ある」としたら、それを実行しなく
ていいのかい、と問うことに妥当性があるでしょうか?本メールではこ
の点を問題にしたいと思います。

「産む」ことは封建社会のもとでは選択の余地がなかったと思われます
が、今なお、その文化を引きずった「圧力」が有形無形に存在するもの
と思われます(当人にとってその強さには違いがありますが)。

・・・軍国時代には、産めよ殖やせ、が社会的スローガンにもなった、
と聞きます。

「産む」選択肢への正当化の一つに、生物学主義とでも呼んだらよいよ
うな思想、態度を感じることがあります。

・・・生物学主義という言葉で思い浮かべているのは、生命(もしくは
生命体)の目的を意志(もちろん、人間の意志)に全面的に組み
込むような思想や態度です。

生命の目的の中身は、大雑把にいえば「増殖せよ」ということで
す。また、生命の目的というときの「目的」は、人間意志の抱く
目的とは次元を異にした概念で、生物学的プロセスにおける一つ
の関係を表す言葉です。つまり、生物学的プロセスは、最終的に
は「増殖」という一つの結果 end (end は目的、という訳語を
当てることもありますね)に終わるように、遺伝的にプログラム
されている、という関係のことです。結果を指向する過程である、
という意味で、概日リズム研究の開祖ピッテンドリックは、4,
50年前に、これをテレオノミックな過程(目的律的過程)と名
づけました。

受精卵は発生し、必ず成熟します(もちろん、この過程に欠陥が
ある場合もありますが、ノームは、発生し成熟して、新たな生命
(受精卵)を生む、ということです)。そして、人間であれば、
それを助けるための性欲を感ずることができます。以上の純粋に
生物学的なプロセスは視床下部が中枢となっている、といってよ
いでしょう。後天的学習が入り込むことはできない、という特徴
をもっています。

これに対し、理性や知性はもちろん大脳新皮質の領域で、学習が
いのちです。人間の意志はここにあります。

・・・理性や知性の「能力」に個人差がありますが、その約40
ないし60%は遺伝的な要因によって決まる、といわれて
います。理性や知性の「具体的内容」は、学習されたもの
です。「形式的内容」、たとえば、三次元的空間、一次元
的時間、という認識の枠組みの大部分は遺伝的に決まって
いる、と考えるのが自然でしょう。

なお、理性は判断、知性は思考に関係する、とここでは使
い分けておきます。

前置きが長くなってしまいましたが、生物学主義にはちょっとした魔力
があって、身分、階層、社会的地位にかかわらず、浸透しやすいものと
思われるばかりか、危険思想を生む土壌になりうるものを感じるので、
ちょっと説明してみました。

この説明からお分かり頂けると嬉しいのですが、生物学主義は、理性の
停止を意味しています。知性がイメージするさまざまな状況のなかで、
私はなにをなすべきか、という判断を下すのが理性です。生物学主義は、
そうした状況の如何とはまったく独立に、視床下部の命令に従いなさい、
という態度になっていると思うのです。もちろん、厳密にいえば、この
態度そのものでさえ、理性による判断なしには成り立ちません。

一方、赤ちゃんを生み育てることに喜びを感じ、幸せを感ずる能力を、
人間は遺伝的に(潜在的に)備えています。で、生み育てることによっ
て幸せを感ずることのできるひとは、幸せです。

・・・もちろん、その遺伝的能力が開花するような形で育てば、という
ことです。このことは、たとえば、まったく思考する訓練をしな
ければ、せっかくの知的能力も開花せずに終わってしまうことと
似た関係にあります。

現代の社会状況が、↑の二つの能力とも、うまく開花できるよう
には、一般的にはなっていない、という点も重要な論題には違い
ありません。また、「生み育てる」ことを難しくする、いろいろ
な社会問題もあります。

・・・「産まない選択」をこうした論点において問う限りにおい
ては、「危険」思想にはなりえないでしょう。

しかし、この幸せの形式(生み育てること)とは別の選択肢によって幸
せを感じる人々がいたって、それは個人の自由という神聖な領域です。
まして、身体的にか、おかれた家庭環境、あるいは社会条件によって、
どうしても(泣く泣く)別の選択肢を選ばざるを得ない人々にとって、
生物学主義の御旗のもとに「生み育てる」ことの「正しさ」を説くこと
は、悲しみや怒りを与えてしまいかねません。

それどころか、「科学」的な装いを帯びているだけに、「正当化」され
やすく、ある種の全体主義につながっていく危険性を孕んでいる、と思
われます。

・・・葛貫さんには釈迦に説法だったと思いますが、敢えて葛貫さんの
メールを引用する形で述べたのは、それが、血縁淘汰、互恵的利
他主義など、いわゆる社会生物学のテーマを人間社会上の問題に
直接的に関係させていたからでした。

須賀さん【2947】が、社会生物学の専門家の立場から、個体
発生的要因(生理学的・発生学的メカニズム)と歴史発生的要因
(進化的メカニズム)との区別の重要性について説明してくれま
したので、僕は、非専門家の立場から、社会生物学的知見はいか
なる意味においても、人間行動の「倫理」的基礎を与えることは
できない、ということを述べてみました。さらに、「与えること
はできない」はずなのに、与えようとすることは、科学的行為で
はなく政治的行為である、という点に注意してもらいたかったの
でした。

・・・むろん、↑の前者の点については異論があるものと思いま
す。社会生物学の課題は、進化的由来を問うことにありま
す。したがって、人間倫理の形式についての進化的由来に
解答をあたえることは可能でしょうが、人間倫理の形式と
その具体的中身の個体発生的要因については、社会生物学
の方法論上、不可能であると僕は考えます。

その個体発生的要因を解明するのは精神科学(脳科学や心
理学)であると思われますが、それでさえ、それを個人行
動の規範として「社会的に」適用することは、科学の侵犯
である、と考えます。

長文になって申し訳ありませんでした。また、難解な用語(形式とか内
容とか目的とか、、、、)と論理になってしまったこと、お詫びいたし
ます。

後藤 健
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生命を考える http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms
帯畜大 生物リズム学 Phone (& Fax): 0155-49-5612


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