[BlueSky: 2712] Endangered Species


[From] "suka" [Date] Mon, 8 Jan 2001 01:17:09 +0900

須賀です。

佐藤さんのご質問の意図をはずしてしまって恐縮なのですが、佐藤さんとわたし
の関心のずれそのものがわたしには興味深いので、このことについて日ごろわ
たしが考えていることを書きます。

絶滅の危機に瀕している動植物の保護したいと考える理由として、心情的なもの
を「さておく」と、理解できない部分がかならずのこると思います。これは生物多様
性の保全、という話題と同じではありません。重なっていますが、ずれている部分
があります。絶滅の危機に瀕している生物は、生物多様性の「構成要素」にはち
がいありませんが、そのすべてではなく、したがって生物多様性の多面的な価値
をあらゆる点で代表しているというわけではないからです。

それでは、なぜそのような生物を守ることを考えなければならないのか? その
答えは、その生物がどのようなものであるか、またそれがおかれている状況が
どんなものか、さらにそれがひとびとにとってもつ意味がどんなものであるかに
よって、個別のケースでそれぞれちがってくることでしょう。けれども一般的にい
って重要であるとわたしが判断しているのは、そういうものを守りたいという価値
観や倫理や文化をもったひとびとが現にいるという事実です。このことを公益、
あるいは民主的な意思決定という観点からどのように位置づけたらいいのかと
いうことにわたしは関心があります。「心情的なもの」は少なくとも社会にとっては
大きな問題です。むしろそれこそが問題の核心なのだとしたらどうでしょうか。

これは美術品や建築などの文化遺産をなぜ守らなければならないのか? と
いう話に似ています。貴重な文化遺産であっても、だれもが同じようにその価値
をみとめるわけではおそらくないにちがいありません。ですから、それらの文化
遺産も努力なしに守られるわけではありません。けれども文化遺産の場合には、
一般に生物の場合ほど反発をまねきやすくはないのではないでしょうか。わたし
が好奇心をそそられるのは、なぜ人間がつくったものと自然がつくったものとで、
このようにちがったとらえ方がなされるのかということです。これはわたしにとって
は未解決の問題です。ひとつ考えられるのは、それが「生物」であるという理由で、
類推によって、それが生物学のあつかうものであると考えられてしまう場合が多
いのではないかということです。けれどもわたしはこれには疑問をもっています。
生物のことは何でも生物学者にまかせなければならないのでしょうか。少し冷静
に考えればどなたにでも理解していただけると思うのですが、野生生物は、「生
物学」というフィルターを通してのみ人間の社会と接しているわけではありません。
絶滅の危険のある生物の保護をめぐる問題は、もともとそのような人間的尺度の
世界に大きくひらかれた問題として出てきているのではないかとわたしは理解して
います。

それでは、絶滅の危険のある生物は、具体的な利用価値がはっきりしない場合、
そうした心情的な観点からしか考えることができないのでしょうか。少なくともそれ
らは、人間活動が生物圏との持続的な関係をどの程度そこなっているのかを示
すたいへんわかりやすい指標としての意味をもっているのではないかと思います。
問題は、そのような指標がどのような生態学的帰結を「警告している」のか、一般
化されたかたちでわかりやすく示されていないということかもしれませんね。しかし
生態学的なプロセスの複雑さを考えたとき、そのような一般化が可能なのかどうか
ということも問題となりうると思います。むしろすべての種が生態学的に同じように
重みづけられるとは考えられないと理解するべきではないでしょうか。

須賀 丈



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