[BlueSky: 2709] 新陳代謝  Re:2707  市場


[From] "Y. Kuzunuki" [Date] Sat, 6 Jan 2001 17:34:09 +0900

葛貫です。

佐藤@ミシガンさん:
> 特に葛貫さんのこの投稿は、何の事を言っているのかわからないのです。
> よろしかったら、少しご解説いただけませんでしょうか?

独り言のようなものを投稿して、ごめんなさい m(._.)m 。

【2693】に書いたのですが、昨年末にNHKで「世紀を越えて・
最終章 3 欲望社会・市場はどこまで拡大するのか」という番組が
放送されていました。

その中で、自由市場を推奨するアメリカのフランシス・フクヤマさんと
いう方と、お名前を忘れてしまったのですが、弱い者(どう定義するか
難しいですが)の立場を守るために何らかの規制を市場に課すべき
だというイギリスの経済学者の意見が紹介されていました。

市場というものは、物を売っているようでいて、実は、物に込められた
アイディアを売っているのだとしたら、自由市場のもとでは、斬新な
アイディアを提供できる間は人は市場価値があるものとして珍重(?)
され、市場を繰っているかのように思える時期もあるかもしれない。
けれど、一旦新しいアイディアを生みだせなくなったり、より新しいアイ
ディアを生み出せる者がでてきたら、その市場価値はなくなってしまう
ように思われました。そのような市場の在り方がよいかどうかは私には
わかりませんが、現存しており、それと無関係の生活はできない。

話が飛躍してしまいますが、「いきもの」の世界について考えると、
市場で力を発揮する「アイディア」に相当するものは、「情報」(先天的・
後天的)であるように思われました。「いのち」を構成する物質は、情報
に従って「かたち」をつくる。胃や腸の粘膜が日々更新されるように、
物質そのものは入れ代わっている。物が残っているのではなく、情報が
残っているわけですよね。
#脳細胞は、ある年齢以降、減るばかりだと聞いたことがありますが、
#残る脳細胞を構成する物質は新陳代謝するのですよね?
#御存知の方がいらしたら教えていただけたら幸いです。

人の社会も、生れて来る者がいて、死んで行く者がいて、新陳代謝が
行われている。生物の歴史をみると、栄える種がいて、滅んで行く種も
いる。有利に残ることができるのは現在の環境にあった「情報」を持っ
たもの、更に、今後の変化を適確に予測した情報を産み出し、それに
備えることができるものであるように思われます。

そういう意味で、日々、自分自身の情報(先天的なものは無理かな)を
更新して、旧くならないでいられれば、環境(自然・社会)の変化の影響
を無防備な状態で受けることなく、多少なりとも、自分の生のイニシア
ティブを取ることができるのかもしれないと思いました。

> > いつも身につけていて、自分自身と区別がつかなくなってしまってい
> > るものを、どの程度手放すことができるか、如何に体と頭と心の新
> >陳 代謝を滞りなく行うかという問題なのかな、とも思いました。

人は、生れてから得た物や、社会的なステイタスに伴う役割のような
もの、ミーム等は、取捨選択できる。何が「自分」なのか識ることができ
たら、また、それぞれの場・時におけるミームや物の最適な新陳代謝の
速度を識ることができたら、生きやすいかも、と思いました。

風土により、ミームや物の最適な新陳代謝の速度は違うのではと思い
ます。国際協力で技術を伝えようとしても、派遣された技術者が帰って
しまうと元の木阿弥になってしまう場合が多々あるようです。
西欧のペースに合わせることがいいことのように錯覚しているだけなの
ではないか。一生懸命、技術を伝えようとしている人には申し訳ないの
ですが、結果としてその土地のペースに戻ってしまう強かさ・健かさの
ようなものを感じてしまいます。

余談ですが、
> > 「旧くならないでいる」というと、「後ろのものを忘れ、前のものに向か
> > ってからだを伸ばしつつ・・・・」というパウロの言葉を思い出します。

パウロは、ユダヤ教のエリート中のエリートで、旧来のミームの守護者、
イエスの弟子たちの迫害者であった人です。そして、イエスという人の
エッセンスのようなものを識るという「目から鱗が落ちる」体験をした後、
それを伝えることに生涯を費やし、結果としてキリスト教会のもとになる
ものをつくった人です。パウロは、惜しげもなく、旧来のミームを捨て、
エリートの地位も、それに伴う物的、精神的、心理的なメリットを捨てた。
私には、パウロが伝えようとしたエッセンスがどのようなものなのか、
わかりません。旧来の価値観を刷新しようとした熱意の動機となった
ものを垣間見ることもできません。
とにかく、パウロは、後々、様々な都合による解釈がなされ、自分の
伝えたことのqualityが変わってしまう可能性があるとは思いもよらず、
自分にとって善き種と思えたものを世界に蒔いたのだと思います。
(間違った解釈だったらごめんなさい。)

興福寺の宝物館にある阿修羅像は、釈迦の教えに背いて、背いて、
背ききった阿修羅が、ある時、フッと釈迦のエッセンスを識り回心した
瞬間を表現したものだという話を聞いたことがあります。
信じもぜず、背きもせず、という状態では、阿修羅やパウロのような濃い
体験は味わえないかもしれませんね。

まとまりませんが、このようなことを思いながら【2706】を書きました。

糸井重里さんのコラム<21世紀の前から考えてた21世紀> は、
月曜日以降は、http://www.1101.com/saisin/index.html からの
リンクになると思います。

う〜、パソコンのキーボードを変えたら、タイプが上手くできないだけで
なく、言葉も思うように出てこない。
指の動きと脳の働きが連動しているのかしら(@_@;)?

では。





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