[BlueSky: 2450] 虫は虫なり (結果主義と動機主義) (禁じられた遊び)


[From] "gengorou" [Date] Mon, 16 Oct 2000 21:47:43 +0900



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虫は虫なりに一つの考え(結果主義と動機主義)
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−−−人のいる、複合世界−−−−

【一つの行為と二つの思い】

 人には好みがある。ケーキが大好きな人が世話になった人に
ケーキを差し上げたが、もらった人はケーキが大嫌いだという
ことがある。あるいは助けてもらった人に自分の思い出の品物
をあげても喜ばれるとは限らない。
 人には立場なりの気持ちもある。お年寄りに席を譲っても、
席を譲られた人が年寄り扱いされるのを何よりも嫌っていた
場合、喜ばれるとは限らない。
 このように人が他者にする行為や言葉がけでは、くい違いが
起きる場合が多いように思います。このことに嘆いたり諦めた
り批判したりして対処しようとする前に、私たちは、私たちの
ように「思い」がある人間には一つの行為に対してその人なり
の捉え方があることを知らなければいけないと思います。
人ごとに物事を捉えている人間という生物は、人によって世界
が違って見えている可能性に気が付かなければならないように
思います。
 ケーキや思い出の品をもらった人の気持ちを考えると、もら
い手の気持ちだけで考えると有り難くはないが、あげた人の気
持ちを考えると有りがたみが湧いてくる。席を譲られた自分の
思いだけでなく、席を譲ってくれた人の思いを考えると、物で
はなく、気持ちに対してお礼も言える気がします。
 上げた者の気持ちを考えてみても、感謝されなかった場合に
「差し上げたのに喜ばないなんて・・」とか、「席を譲ったの
にお礼も言わないなんて・・・」と、落ち込むこともなくなる
ように思います。

【立場と考え方】

こんなことを聞いたことがあります。
混雑している駅の自動券売機で年輩の婦人が困っている。後ろ
に並んだ若い女性が親切に券売機の操作方法を教えて上げたと
ころ、その婦人は切符を手にするとお礼も言わないどころか、
何か怒っている様子で改札口に向かって去っていってしまった。
若い女性は、「人が親切に教えているのにお礼ぐらい言っても」
と思ったとのこと。
 私はこのことを聞いて思ったのですが、年輩の婦人は後ろに
並んでいた人から教えられたことで、自分の切符を買う行為を
「遅い」と責められていると感じながら券売機の操作を聞いて
いたのではないだろうか。もしもこの場合が、すでに買い終わ
った人、あるいは横の列にいた人から券売機の扱い方を教わっ
ていたなら、この年輩のご婦人は自分が遅いことを責められて
いるとは感じなかったのではないでしょうか。。

私としては、券売機が扱えない人が親切を感じる余裕がなく責
められたと思う気持ちも分かるような気がすますし、若い女性
がお礼も言われなかったことに憤慨する気持ちも分かるような
気がします。一つの行為、この場合では「券売機の扱い方を教
えると教えられる」行為に対して立場なりの捉え方が、人には
起こるように思えます。

 私たちは物だけでなく、事までも立場なりに違って感じてい
る動物であることを知ることが、人間の海を泳ぐ上ではとても
大切だと思います。違って見えてしまうことは避けようもない
ことなので対処など出来なくても、違って見えてしまうという
性質を人間が共通に持っているということだけでも気が付けた
ならば、私たちの日常で、ぎくしゃくした人間関係はかなり少
なくなるように思います。

さて、ここまで私が書いたことは、ある意味で、人間にはその
人なりの立場による「原因や理由」があるということになりま
す。そのことによって表面に現れる行動の裏には「動機」とい
うものがあるということになり、それを知ること、さらには考
えることは大切かもしれないという内容になりますが、しかし、
「動機」を重視しすぎると、またまた困ったことが起きてしま
うかもしれません。(以下に続く)


−−−−結果主義と動機主義−−−−

【事故死と殺人】

 かなりのスピードを出した車がカーブで曲がりきれずにスリ
ップして歩道に突っ込んで、不幸にも歩行者を殺してしまった
場合と、普段から恨みに思っている人を付け狙い、車のスピー
ドを出し故意にその人をひいて殺してしまった場合を考えてみ
ます。
裁判では「故意か過失か」が問われます。それより裁判以前の
段階で「交通裁判か刑事裁判か」に分けられる場合もあるよう
です。
加害者側を考えると、故意であるか事故であるかは大変に重要
な事になりますが、殺された側、あるいは、残された遺族から
すると事実は、事故であろうと殺意の結果であろうと与えられ
たものは「死」であり、加害者側の故意か事故であるかは二の
次になります。

この「車で人が死ぬ」という行為を加害者側から考えるのは、
ある意味で過失に着目するように「動機」を重んじる考え方で、
被害者側を考えるのは、ある意味で死という「結果」を考える
事になっているように思えます。

【法律と「動機主義と結果主義」】

しかしながら、ここで、仮定を考えてみます。
もしも、法に「どんな場合も人を殺したなら殺した者は「殺人
者」として扱う」という条文があったなら、人は殺人者の扱い
を受け死刑になる可能性もあるのでスピードを出すこと自体を
怖がり始めるのではないでしょうか。。故意であろうとなかろ
うと人を殺したという結果を重視した「結果主義」を法に適用
した場合に、もし人が車のスピードを出さなくなったとすると、
人はスピードを出すことが人を殺す可能性があるということを
知っていることになり、動機主義で考えた場合も、スピードを
出す者は、不特定の人の生命をなんとも思っていないことを証
明してしまいます。

私は、このように考えると現在の法律が人の「想いを尊重」す
るあまり、過度に動機主義に偏っているようにも思えてきてし
まいます。裁判において動機を考えると罰の程度を決定しなけ
ればならなず、正確な動機の程度まで決定されることが望まれ
る裁判の長期化は、動機主義によって長期化しているとも考え
られます。

交通事故に限らず原発事故などのように仕事場での事故を考え
ると、動機主義は不完全な社会を前提にしている部分もうかが
え、「現在の安全基準では致し方ない。従業員を殺す気はなか
った。防ぎようがなかった。」と、事の前提を全面に押し出し
てきます。それは、新しい技術の仕事を進行する上では、危険
は付き物であるという産業社会を中心において、不完全でも行
わざるをえないという前提、すなわち、やはり動機主義的な考
え方がその前提にあるように思えます。

【動機主義が起こす争い】

 この地球の何処かではいつも紛争が起きていますが、それら
に関係している人々の言葉を聞くと「我々は我々の同士に加え
られた扱いへの報復で攻撃を行った」というような、自分たち
の行動の動機を語る場合が多いように思えます。
「平和の為」「防衛のため」「仲裁の為」「奪回のため」「民
主主義の為」と様々な理由(動機)が語られているように思い
ます。その動機が動機を生み、紛争は複雑化しているように思
えてなりません。

 このような時、もしも私たち人類に「動機主義的」な考え方
が存在せずに、「結果主義」だけの考え方しかなかったならど
うでしょうか。つまり「動機はいつでも一方的な物事の見方で
しかない」と考え、たとえば「どんな攻撃でも、それは殺戮と
みなす」という考えがあり、全人類が結果だけしか見ないよう
にし、攻撃行為をした者は、有無も言わずにその他の全人類か
ら阻害されたら、攻撃を容易(たやす)く起こす者はかなり減
るのではないでしょうか。。

 私としては、民族紛争、宗教紛争、イデオロギー(主義)紛
争は、それ自体が原因ではなく、他に原因があって、それ(民
族、宗教、主義)が理由にされて紛争が起きているように思え
ます。つまり、「動機主義」がこれら(民族、宗教、主義)を
大義名分にしやすくしており、紛争に火を付けやすくしている
ように思えてなりません。おそらく過度な動機主義は人の尊厳
を重要視することから生まれているのだと思いますが、皮肉な
ことに「人の尊厳」が結果として「人の尊厳」を脅かしている
という現状は、「動機主義に対する盲目的手放しの考え方」
からも、生まれているように思えてなりません。

【結果主義と動機主義の使い分け】

こうして、人間の関係に関して、結果主義と動機主義を考えて
くると、事は簡単なのかもしれません。

結果主義が良いのか、動機主義が良いのかではなく、その使い
分けがトラブルを防ぐような気がしてきました。

相手の事を考えるときには、相手の置かれた状況を考え、その
行動の理由や原因を考え、動機主義的な思考を用いることが大
切で、自分の主張をするときには、相手の結果主義的な物事の
捉え方を尊重すればよいのではないかと思います。
 それを、その逆に、
相手の行動を結果主義的に考え、自分の主張をするときには、
動機主義的に考えると大変な間違いが起きるように思います。

自分に都合の良い方に、結果主義なり動機主義的な思考をして
しまう者は、人類が属している環境の意思のないメカニズムに
よって結果的に自分自身も紛争に巻き込まれてしまうようです。

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genngorou


  −−−禁じられた遊び−−−

  人とは「騒ぐ脳」を所有している生物で、その脳を楽し
  ませるために、せっかく作り出した素晴らしい物事(宗教、
  民族、国家、主義、狸論、科学)を、遊びの道具に利用し
  ているように思えてなりません。その為に同じ道具を使っ
  ている者同士(同じ事柄を考える者同士)が戦っているよ
  うにも思えます。
  たとえば立派なグローブを持っている者はキャッチボール
  を始め、相手の投げ方が悪いとか、受け方が悪いと言い争
  うことが出来るようにです。
   そして、キャッチボールをする者と、他の場所で水泳を
  している者とは、争いにくいように、どうも宗教は宗教的
  に争い、民族は民族的にしか争えないようです。つまり、
  見方を変えると、騒ぐ脳の促すままに、同じ道具を持った
  人を相手にキャッチボールを楽しんでいるとも言えるよう
  に思えます。自分の死のみならず、わが子の死をも賭けて。

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  いっつも、あわてて書いているので
支離滅裂、乱文、お許しください。ゲンゴロウ。。。。.。
メールアドレス gengorou@m08.alpha-net.ne.jp
ホームページ http://www.alpha-net.ne.jp/users2/gengorou/

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