こんばんは、葛貫さん、ゲンゴロウです。
いつも、お相手をしていただき、ありがとうございます。
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【ゲンゴロウ】
>> 猫をペットとして飼ったら食肉としては考えられなくなり、釣った魚も
>> 食べられなくなる。物自体に変化がなくても私たちの多面性が物を変化
>> させてしまっているのではないでしょうか。
【葛貫さん】
>そうですね。単に物質として存在しているのではなく、そのものとの付き
>合い方、そのものとの間につくりだした歴史のようなものが、影響するの
>かもしれませんね。人が死んだら鳥葬にする地域や、亡くなった人が尊
>敬に値する場合その人の素晴らしさを分けてもらうという意味で肉を食
>べる習慣があった地域もあったそうです。その地域での風俗習慣、もの
>ごとへの意味付け、解釈の仕方も影響してくるのだと思います。
「意味づけ」↑で、思い出したのですが、
今でも人によっては、海の神様、森の神様、沼の神様など崇めますが、
あれは、海とか森に感謝する際に、擬人化したのではないでしょうか?
と、一週間ほど前に考えていたのを思い出しました。
なるほど、古代の人は、感謝の対象まで作って、人々が感謝の心を表し
やすいようにしていたのかも、、、と思いました。
【ゲンゴロウ】
>> 多面的ということは素晴らしいことなのに、それがあることで、私たち
>> には世界がいくとおりにも見えてしまって、そのことを不可解に感じ理
>> 解に苦しんでいるのが私たち人間の苦しみのような気がします。
>> 人間の多面性の数だけ分業が起こり、それらに明確に隔たりが出来た商
>> 品(刺身のお造りなど)が生まれているように思います。
【葛貫さん】
>はい。
>それで、自分の「生」は何によって支えられているのかわからなくなって
>しまう。そして、中澤さんが【2432】に書いていらした
↓
引用、ありがとうございます。
↓
【中澤さん】
>> ぼくが言いたいのは,肉食は動物の命を奪って可能になるし,ベジ
>> タリアンだって植物の生命のおこぼれに預かっているわけで,ヒト
>> が従属栄養生物である以上,生きることは他の生命からエネルギー
>> を収奪することである,とはっきり認識すべきだということです。
>> そうであってこそ,他の生命への敬意も生まれると思います。
>> 脳化社会は,見たくないものは見なくて済むような文化のフィルタ
>> ーを作ってきましたが,そうして脳が不快を感じずに済むようにな
>> ってきたことと,他の生命への敬意や,ヒトも自然の一部であると
>> いう森林の思考(鈴木秀夫さんの意味で)が失われてきたことは表
>> 裏一体と思います。
>ということになり、時空に広がる有機的なつながりを理解しようとせず、
>他のものから切り離された自分を演じ、他のいのちも、自分のいのち
>も、粗末にするようになってしまうのでは、と思います。
確かに。
【ゲンゴロウ】
>> ある時は殺せてある時は可愛がるは、人間の優れた多面性の現れと理解
>> できれば、生き物を殺しながら自分たちが生きることの矛盾に悩む心も
>> 納得処理がゆくように思います。
【葛貫さん】
>はい。「矛盾する心」を自分が持っていることを容認できるようになり
>たいと願います。
私など、なかなか納得行かないので、矛盾についていつも
考えています。。。どうしてなんだろう。。と。
で、自問自答のように考えて、書いて、出す。。。
【ゲンゴロウ】
>> 多面的な物事を理解する必要はなく、多面があるということだけを
>> 理解すれば、かなり状況は良くなるのではと思います。。
>> そして、異である部分に目を向けるのではなく、同である部分を探せ
>> たらよいな〜と思います。
【葛貫さん】
>同じ部分を探せなくても、放っておくことができるだけの許容量があれば、
>と思います。
なるほど。。
でも、近い環境に暮らす、兄妹、家族、クラスメート、同僚、
あるいは、、隣国同士では、、放っておくというのは、、
ちょっと寂しいというか、、出来ない感じもします。
が、
「見つめて上げる」という意味ならば、許容量を持つことは大切ですね。
待つというか、期待しないというか、、見守るというか。。。
目を向けないという事ではないですものね。
>だいたいの問題は、正誤や善悪の問題ではなく、好き嫌い
>に還元できると思われます。
ふーーむ。。。
>人を説得し従わせることで、単なる好みを
>自分の信念や教義のようなものに強化して行くのもどんなものかと思い
>ます。
???
>> 人と心を通じ合わせる経験を人が出来たら、人は人を殺せなくなります。
>> ということを逆に考えると、人を殺せる人というのは、そういった心を
>> 通じ合わせた経験がないことになります。。
>心を通じ合わせ気が合った場合、「我」と「汝」の関係ではなく、「私達」と
>一括りにするから、殺す必要がなくなるのではないでしょうか。
ちょっと、このことは、別な危険もはらんでいる気がします。
まず、その前に、私が上で言ったところの「人」とは、特定の人ではなく、
ある人が少数でもいいから人(例えば友達)と心を通わせることで、
相互作用で自分も人間であると気が付き、同時に相手もそうだと感じ、
ババババァと、相乗作用で、その他の多くの人間も貴重と感じられるから、
殺せなくなるという意味です。つまり、葛貫さんの言葉を借りると、
全ての人が「私たち」になるわけです。(同じ?)
ただ、次が問題です。
「同胞である、我々と呼び合う仲」にこそ、争いが起こりやすいと
私は思ってます。なので、「親しき仲に礼儀有り」はとても大切で、
親しき仲に「こそ」礼儀と考え、やはり、心を通わせても「私達」と
なるのは危険ではないかと思うのです。
(また、脱線です)
「今日は、何して遊ぼうかぁ!」と仲間が集まって、
「野球をしようよ!」で、広場に子ども達が向かう。
広場までの道のりでは仲が良くても、、目的地である
広場に付くと今度は、ポジションを巡って争いになる。。。
そんなことが、国内の政党に限らず条約を結んだ国に
起きているような気がします。
目的が達成された時に危機がやってくる。
つまり、「我」「汝」が「私たち」になった瞬間から、
互いには破局が用意されている感じがします。
(私は、カーチャンに、いつもこれを言ってます。
「私を自分だと思うなよ!」って。そして、
結婚は目的ではないぞ!目的は仲良く生きる
ことだぞ!っと。。ゴチソウサマ?)
>どこまでを「私達」と感じられるか、あるいは、「偶々、とある時代の、
>とある地域に生まれたから、このような私になっている」ということを認識
>できているか(相手の時代、相手の場所に生まれていたらと、相手が持
>っている背景を想像し、容認できるか)等が問題になるのではと思います。
むずかしいですね。
私、「同じ部分を探そう」なんて言いましたが、「見つからない」危険性が
あるようです。その時は、まずいことになりそうです。。。
やはり、、眺めるくらいの気持ちが、大切かもしれません。
>資源にどれだけの余裕があるか、心や頭にどれだけあそびの部分を持っ
>ていられるかが関係するのかもしれませんね。
>限られた資源を巡って「私達」と思える範囲がだんだん狭くなって行く、
>不安と資源の抱え込みにより、あるものも有効に使えない、そんな状況
>を避けるには、どうしたらいいのでしょう。
(うーむ。。。葛貫さん、いつも最後に
意味深な課題を投げかけます。。
きらいじゃないけど。。。)
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でも、きょうは、これにて、、
ありがとうございました!!
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