[BlueSky: 2437] Re:2435 奉仕よりも生活教育を


[From] "Y.Kuzunuki" [Date] Sat, 7 Oct 2000 17:37:41 +0900

こんにちは、葛貫です。

ゲンゴロウさん:
> 猫をペットとして飼ったら食肉としては考えられなくなり、釣った魚も
> 食べられなくなる。物自体に変化がなくても私たちの多面性が物を変化
> させてしまっているのではないでしょうか。

そうですね。単に物質として存在しているのではなく、そのものとの付き
合い方、そのものとの間につくりだした歴史のようなものが、影響するの
かもしれませんね。人が死んだら鳥葬にする地域や、亡くなった人が尊
敬に値する場合その人の素晴らしさを分けてもらうという意味で肉を食
べる習慣があった地域もあったそうです。その地域での風俗習慣、もの
ごとへの意味付け、解釈の仕方も影響してくるのだと思います。

> 多面的ということは素晴らしいことなのに、それがあることで、私たち
> には世界がいくとおりにも見えてしまって、そのことを不可解に感じ理
> 解に苦しんでいるのが私たち人間の苦しみのような気がします。

> 人間の多面性の数だけ分業が起こり、それらに明確に隔たりが出来た商
> 品(刺身のお造りなど)が生まれているように思います。

はい。
それで、自分の「生」は何によって支えられているのかわからなくなって
しまう。そして、中澤さんが【2432】に書いていらした

> ぼくが言いたいのは,肉食は動物の命を奪って可能になるし,ベジ
> タリアンだって植物の生命のおこぼれに預かっているわけで,ヒト
> が従属栄養生物である以上,生きることは他の生命からエネルギー
> を収奪することである,とはっきり認識すべきだということです。
> そうであってこそ,他の生命への敬意も生まれると思います。
> 脳化社会は,見たくないものは見なくて済むような文化のフィルタ
> ーを作ってきましたが,そうして脳が不快を感じずに済むようにな
> ってきたことと,他の生命への敬意や,ヒトも自然の一部であると
> いう森林の思考(鈴木秀夫さんの意味で)が失われてきたことは表
> 裏一体と思います。

ということになり、時空に広がる有機的なつながりを理解しようとせず、
他のものから切り離された自分を演じ、他のいのちも、自分のいのち
も、粗末にするようになってしまうのでは、と思います。

ゲンゴロウさん:
> ある時は殺せてある時は可愛がるは、人間の優れた多面性の現れと理解
> できれば、生き物を殺しながら自分たちが生きることの矛盾に悩む心も
> 納得処理がゆくように思います。

はい。「矛盾する心」を自分が持っていることを容認できるようになり
たいと願います。

> 多面的な物事を理解する必要はなく、多面があるということだけを
> 理解すれば、かなり状況は良くなるのではと思います。。
> そして、異である部分に目を向けるのではなく、同である部分を探せ
> たらよいな〜と思います。

同じ部分を探せなくても、放っておくことができるだけの許容量があれば、
と思います。だいたいの問題は、正誤や善悪の問題ではなく、好き嫌い
に還元できると思われます。人を説得し従わせることで、単なる好みを
自分の信念や教義のようなものに強化して行くのもどんなものかと思い
ます。

> 人と心を通じ合わせる経験を人が出来たら、人は人を殺せなくなります。
> ということを逆に考えると、人を殺せる人というのは、そういった心を
> 通じ合わせた経験がないことになります。。

心を通じ合わせ気が合った場合、「我」と「汝」の関係ではなく、「私達」と
一括りにするから、殺す必要がなくなるのではないでしょうか。
どこまでを「私達」と感じられるか、あるいは、「偶々、とある時代の、
とある地域に生まれたから、このような私になっている」ということを認識
できているか(相手の時代、相手の場所に生まれていたらと、相手が持
っている背景を想像し、容認できるか)等が問題になるのではと思います。
資源にどれだけの余裕があるか、心や頭にどれだけあそびの部分を持っ
ていられるかが関係するのかもしれませんね。
限られた資源を巡って「私達」と思える範囲がだんだん狭くなって行く、
不安と資源の抱え込みにより、あるものも有効に使えない、そんな状況
を避けるには、どうしたらいいのでしょう。



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