[BlueSky: 2414] Re:2412 奉仕よりも生活教育を


[From] "Y.Kuzunuki" [Date] Fri, 29 Sep 2000 12:47:42 +0900

こんにちは、葛貫です。

中澤@東京大学人類生態さん:
> 解体みたいな生々しさから目をそらすというのは,死体がなるべく
> 目に触れないようにするとかと同じで,剥き出しの身体を社会から
> 隠すという方向性で,社会の脳化の必然的帰結ではあると思います。

これは、人が死んで行く時にも適用されていますよね。
出産に配偶者が立ち会うケースは増えているのに、病院での死の瞬間、
親族は病室から出されて、医師が処置し終わった後に呼ばれることが
多いようです。「こうして、息を引き取り、身体とともに脳も消えて行くんだ。」
ということを実感したことがない脳は、有限である感覚を持ちにくいのかも
しれませんね。

> さてしかし。身体を社会から隠すという文化には,いろいろな弊害
> があると思います。・・・中略・・・社会の脳化が進展するほど,世界
> 認識の共通基盤が失われ,意思の疎通が難しくなるように思います。

はい。インターネット等の世界的な通信手段の発達しても、自分好みの
情報にしかつながらなければ、そうなるのでしょうね。「身体を持って、
ここにいる私」の存在が希薄なネットの世界に長い時間接している人達
は、脳がネットを通じて無限に広がって行くような、一種独特の感覚を持
っているのかもしれません。引き出すスキルさえ身につければ、自分の
脳に情報を入れる必要がないようにさえ思えてしまうのかもしれないです。
でも、それは、実際の「自分」ではない。

> 狩猟採集社会で生きる人々は大抵,経験に基づいて自分がなにもの
> であるかをよくわかっていて,身体の調子をうかがいながら生活して
> います。ぼくには,時折,彼らの方が生命として幸せなのではないか
> と思えることがあります。

環境収容力等を考えれば、狩猟採集社会に戻ることが無理なのは明白
ですし、【144】に書いていらしたように、自分の子供をそこに放り込むこと
は、躊躇われます。でも、「幸せ」の質について考えた方がいいのかもし
れませんね。

【2406】で紹介した「希望の国のエクソダス」も、リッチな培養液に浸され、
恒温室で酸欠にならないように適当に震蕩培養されたかのように、餓え
とか寒さとかを満たしたいという身体の切実な欲求を感じることなく育ち、
現実の物ではなく、市場とか情報とかいう、人の脳がつくりだしたものを
繰ることにより、自分の生存環境を保つ、そんな在り方に対する危機感
のようなものも込められているように思われました。

> 考えてみれば,文化は脳を通して身体に働きかけるので,脳が優位
> になることは個体性よりも社会性が優位に立つことを意味するのに,
> 脳自体は自身の自律性を求めたがるから,脳化社会は,個人主義と
> 社会による個人のコントロールの両方を求めることになって,矛盾
> しそうな気がします。

はい。
どういうかたちで、この矛盾が噴き出してくるか。
身体性優位な子供では反社会的な行動というかたち、脳優位な大人
では鬱や心身症というかたち?

> そうですよね。しかし,いい学校ですね。

結局、熱意のある先生に拠るところが大きいようです。
そのような先生が転出してしまわれたら、どうなるか。
中学校でも部活の顧問の引き受け手がなく、廃部になる場合が増えて
いるそうです。もし自分が教員になっていたら、顧問を引き受けたかどうか、
???です。授業、高校受験の世話、自分自身の生活・・・・・。
負担が多過ぎるような気がします。
私が子供だった頃と同じ1日は24時間で、電化製品やコンビニにより
日々のルーチンにかかる時間は少なくなったはずなのに、大人も子供も、
何で、こんなに忙しそうで、疲れているように見えるのだろう、と思います。



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