[BlueSky: 222] 社会の巨大化と個人責任 Re:193 科学技術への負の態度


[From] Ken Goto [Date] Sat, 31 Jul 1999 18:26:00 +0900

和尚さん、青空MLの皆さん

(1)科学と技術
(2)理系嫌いについて
(3)社会の巨大化と個人責任

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(1)科学と技術

和尚【213】:
> そう言う意味で,(第三者的には)どんなに技術と縁遠そうな研究も,少なくともやってる
> 本人は技術に直結しているのだと考えて行う必要があると言いたかったのです。
この点では全く同感です。僕自身の生活態度は「脳天気」でありますが、脳天気
な考え方はしてないつもりです(というところが、脳天気ですね!はははっは)。

> >また【186】のような議論では、両者を厳密に区別しないと、混乱の素になり
> >ます。
>
> 全く区別したがるのが科学(分けて学ぶ)者の良くも悪くも特性ですネ。
う〜ん、科学という訳語が悪いようですね。
科学の原義は、science です。science 自体はラテン語の scientia から来た言
葉であるようで、having knowledge という意味です。ドイツ語では
Wissenshaft 、学は単に知識の体系です。 

もちろん、手、脚、胴、などの「言葉」自身を使うことも、「分ける」という認
識作用(つまり、分析)が不可欠な因子となっています。これは、科学の特性で
はなく、人間の論理的思考の特性だと思います。その「分け方」は文化によって
多分違うのでしょう。

> 法的責任論ではまた話は別ですが,現実の世界では厳密な区別などないと考えた方が
> 良いのです。少なくとも環境問題のような複雑な問題を扱う場合はこの視点は不可避です。
現実問題として、科学者の行為と技術者の行為は、質を異にしています。したがっ
て、科学者の責任と技術者の責任も質的に異なるのが当然です。

或いは、「人類の(とか、私たちの)おかした過ち」という表現でも、植民・侵
略する側とされる側の立場が、全部抜け落ちてしまいます。現代の環境問題では、
明らかに国家・企業戦略が基軸として展開されてきたものです。「人類の」とい
う、すべてをひっくるめた表現を用いることによって、この「区別」が抜け落ち
てしまう、と僕は思います。

もちろん、和尚もおっしゃっていたような「無知の知」は、全般的な現象です。
そして、「無知の知」(科学万能論、技術万能論)が支配的イデオロギーである
ことも、僕自身が認めることです。

しかし、「複雑系」の中にある社会的構造は、「人類の全体的傾向」から「分け
て」「抽出」しないと、全体(複雑系)を見ることはできない、と僕は考えるわ
けです。

> そうすれば,
> 「科学は悪くない,技術が悪い」とか,「技術自体は悪くない,作った企業の責任だ」,
> 「否,企業は使う人間がいるから作るんだ」,「否,認可した国が一番悪い・・・・」,
> などと言った不毛な議論をしなくとも済むのです。
> 問題が起きちゃえば,結局みんな当事者ですからね。

アインシュタインのE=mc^2法則(質量はエネルギーと等価である)の発見
も、原子爆弾の開発・製造・投下と同じような「悪」ということですか?

また、社会的規制を視野に入れた時、技術の規制はコンセンサスを得られる可能
性がありますが、科学(理系学問)の規制は「学問の自由」と抵触すると思われ
ますが、どうなのでしょうか?

(2)理系嫌いについて

和尚【213】:
> 以下,後藤さんの意見良く分かりますが,敢えて違った視点で議論を楽しんでいます。
>
> >でも、例えば、「解答困難」という把握であっても、そこから導かれるのは「逃
> >避」だけではなく「挑戦」である場合もあるわけです。また、「世界は複雑」と
> >思う人が「科学技術への負の態度」へ「短絡」する場合が仮にあるとしても、そ
> >れは、その人が「世界は複雑だ」と認識しているからではない、と思います。
>
> 後藤さんくらい物事をじっくり考えることが出来れば,中高生も「解答困難(絶望)感」に
> 陥ることはなかったでしょう。しかし,残念ながら彼らはすぐに(しかも簡潔な)答えが
> 欲しいのです。これに対して殆どの現実世界がそうであるように,多くの要因が複雑に
> 絡み合って,因果則自体が崩壊しているような世界をみると,彼らは簡単に白旗を揚げ
> ます。
>
> 「解りません,だって複雑すぎるんだモン」てな具合です。
>
> これってむしろ単純系科学の得意な単純な世界観の弊害なんですよ。
> 大学でも日常的にやってるでしょう,「系を単純にしよう」って・・・・
> それでもって結果は「単純に有意な差が有るか無いか」の積み重ねでしょう。
> 単純に出来ない対象は,研究に適さない対象としてませんか?

ここは和尚、明らかに違います。
反例:中高生までに、子どもたちは科学教育を受けていません。知識を詰め込ん
だり、問題を解いたりしますが、それは科学的態度とは関係のないところで行わ
れている、と思うのです。

> 私が前述したような曖昧な複雑性なんかどんどん排除してるでしょう?
> 科学がしていることは無限の複雑性を一生懸命になって単純にしてる
> 行為なんですよ。最後は全部が単純になると信じてる素朴な人も少な
> からず居ますしね。だけど,これは無理ですよ。無限から有限を引いても
> やっぱり無限な未知が残っているのです。
> 私が仕事としている「土壌微生物群集」なんて将にその様な世界で,お陰で
> 重要さはみんな認識しつつもずっと放置され続けてます(笑)。

ここは同感です。

(3)社会の巨大化と個人責任

和尚【213】:
> 待てよ,後藤さんの一貫した発言を見るに,後藤さんは本当に人間が好きなのでは
> ないですか?
いやぁ、、、。でも、***・こどもは好きです。

> 視点が人間にどっぷり浸かってますね。悪い事じゃないけど,私はもう一歩引いて
> 自分自身の愚かさや悪行も含めて真っ直ぐに人間を見て行きたいと考えているのです。
>
> そう言う意味で,「昔は良かった」的感慨は無いですね。昔も昔で人間は愚かだったと
> 考えています。ただずっと力が弱かった。だから,せめて本当に地球をぶっ壊す前に自ら
> スピードダウンするくらいの賢明さを「殊更シニカルに」夢見ているのです。

「昔も昔で人間は愚かだったと」いうことを僕は否定しているわけではないです。
一貫して、愚かさは変わらないでしょう。でも、60年代の方のくらしぶりの方
が「豊か」ではあったと思います。

「視点が人間にどっぷり浸かって」いるのは事実です。ローカルな環境問題とし
ては「こどもにとっての自然」という視点に浸かっています。

> 何時の世も為政者は民衆に楽観論を植え付けようとしますが,少なくとも私たちの世代は
> そんな甘い状況ではないことを間もなく嫌でも認識せざるを得ないでしょう。
> (立場上あんまり詳しいことを書けないのがもどかしい)
>
> >そうですね!科学技術が進めば進むほど、私たち自身は、(一個人として)どん
> >どんひ弱になっていきますしね。
>
> 後藤さんと私の視点の違いが上の文に如実に現れています。
> つまり,後藤さんは技術とそれに伴う社会の発達が,一人の人間をちっぽけな存在に
> したと考えているようですが,私の意見は,そのちっぽけな存在が知らずに消費してしまう,
> 資源やエネルギー,他の生き物たちの未来の膨大さです。

はい、和尚のおっしゃる通りです。僕の事実認識と変わることは一つもないと思
います。ただ、違う点は、「膨大さ」をどのようにとらえるか、という点だと思
います(後述)。

> 私が言いたかったのは,私たちは既に十分強大なのだという自覚です。
> 私の目には人類は「酔っぱらった頭の良くない巨人」に見えます。
> そう言う無自覚な生き物が60億匹地上を歩き回っているのです。

僕が、人類史における「社会の複雑性の増大」について語る時、一方で個人は取
るに足らないちっぽけな存在になっていると同時に、

・・・わたしの代わりは、少なくとも社会的には誰にでも行える世の中です。

個人にとっての不可知な部分が増大した、ということを指摘しているつもりです。
そして同時に、科学技術の巨大化のために、個人の行為が、不可知な部分に及ぼ
す力もまた巨大になってしまっているわけです。

・・・現代人がマイカーを乗り回すという個人的行為の歴史社会的効果は、原始
人が弓矢で狩りをする行為の歴史社会的効果よりもずっと大きく、かつ、
不可知である、ということです。

原始人にとっては個人の責任裁量範囲が明確です。これに対し、現代人は、個々
の個人としては原始人より(社会的意味として)とてつもなく「軽い」命になっ
ているのに、その及ぼす社会的効果は逆に重くなっています。

・・・前者の社会的意味という言葉は、その行為によって受け取る社会的評価の
側面を指しています。前のメールで、社会的無力とか社会的存在感などと
いうのも全く同じです。個人能力の社会的代替性、と呼びましょうか?命
の社会的値段と言ったらよいでしょうか?個人の社会的役割と呼んだらよ
いのでしょうか?

この意味での「機能」は着実に低下しています。

これに対し、後者の社会的効果という言葉で伝えたかったことは、個人が
社会から直接的に受け取るメッセージ(前者の「社会的役割」)を含め、
それ以外に及ぼす効果が膨大になったであろう、ということです。

で、人間は、自分の行為が及ぼす「負の」結果を予想できる限り責任を感じるこ
とができますが、、、現代のように、社会が複雑化し、技術力が巨大になると、
「負の」結果が大きい筈なのに、それが見えなくなる。このことを、前段では
「不可知」と呼んでおきました。

和尚との接点で話をすると、無限から有限を差し引いても無限が残るのは、まさ
にその通りなのですが、「未知」の歴史的増大の方を僕は重視していることにな
ります。

以上を、僕の視点でまとめると、、、

人類史における技術の拡充・強化 → 社会の重層的複合化 
        ↓             ↓
      個人技能の低下 ・・・・←・・・・
        ‖             ↓
      社会的無力の強化 = 社会的効果の増大 → 「未知」の拡大
        ↓             ↓        ↓
      責任感の低下       責任性の増大 ⇔  危険の増大 
        ‖             
      利己的振る舞い       

つまり、巨大社会にほうり込まれたが故に「低下する」個人の責任感とは裏腹に、
巨大社会になったが故に、個人が負うべき責任は「増大した」点に、矛盾を見出
しているのです。

> 人間以外の地球の生き物は随分迷惑顔でしょうね・・・・

おっしゃりたいことはよく「分かる」んですが、、、恵比須顔に喜んでる生き物
もいますしね。ゴキブリとがドブネズミとか。それに、迷惑されてる人々もいっ
ぱいいるわけですし、、、、難しい(⇒複雑な)世の中ですね!

後藤 健
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帯畜大 生物リズム学 Phone (& Fax): 0155-49-5612

☆ 「生命を考える」(玄関)
    http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms
☆ 環境自由大学 青空ML 1999年7月7日発足
              メンバー200名(賛同人15名、管理人5名)
    http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms/Blue_Sky/index.html


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