[BlueSky: 2159] Re:2151 Re2136 命の軽さ


[From] Ken Goto [Date] Wed, 19 Jul 2000 18:20:59 +0900

青空MLの皆さん
                        後藤@帯畜大です。
暑中お見舞い申し上げます。

帯広は昨年にもまして猛暑続きで、仕事がはかどりません。

佐川さん【2151】:
> > また、難病と戦っている人、一命を取り留めた人、、、など、「命にま
> > つわる人生観」は「重い」でしょうが、僕自身はまだそういう「重さ」
> > を身につけていないので、こうした側面については発言を控えます。
>
> う〜ん、後藤さんにそう言われてしまったら、私は、何も言えなくなって
> しまいます(^_^;)。
もう16年も前のことになりますが、ある研究所の就職面接の際にこれ
までの研究概要(「ウキクサ」を材料とした研究)を説明したら、「お
まえの人生も浮き草みたいなものだな」と所長から言われてうなずくし
かない自分でした。

和尚とも成れば、自分の命は惜しくないほどの達観が得られるのでしょう
が、僕はまだ自分の命は惜しい。だからこそ、↓のように怖かったわけで
す。
>    つい、半年前も、学内でひき殺されかけましたからね。怖かった。
>    虫けら同然です。

しかし、「自分の命が惜しい」と感じれられる人生は幸せ、とも言えま
す。もちろん、和尚の域の達観が得られれば別ですが、僕はまだ未熟者
ですから。
おっと、生臭和尚はまだ「命が惜しい」口だと思いますが、↓。

生臭和尚【2156】:
> 何年か前のお正月の深夜に、筑紫哲也(漢字に自信なし)氏司会による若者
> の討論番組ありまして、ある若者が「何故人を殺してはいけないのか?」と
> 言う問いかけを真面目に発したことが議論を呼んだことが有りましたね。
>
> その時に思った私なりの答えは「中央アフリカの内戦地帯に立って考える」
> でした。そう言う真摯な疑問を持つ人には是非とも、飢餓と内戦、伝染病
> で40まで生きることが幸運と言われる場で考えてほしかったです。何故
> なら、人は残念ながら経験を通してしか真の知識を得られないからです。

確かに答えるのが難しい質問ですが、【真摯な疑問】とは感じません。
例えば、その若者に自殺を勧めてみた出演者はいたのでしょうか?で、
彼が自殺を嫌がるなら彼は極めてわがままで、幼稚である、ということ
がわかる、といった類の問題ではないでしょうか?そうなってしまった
不幸を救うひとつの道は、生臭和尚の仰る荒療治かもしれません。
・・・ただ現実的な方法ではなさそうですね:その若者の捉え方が生臭
和尚と僕とで食い違っています。そのわがままを直すためには、
「父親的」厳しさをもって、時間をかけて、躾なおすしか
ないような気がします。

ただ、↓の文章からすると、生臭和尚はこの若者の質問に一縷の真理が
あったような印象を受けとったようですね。

生臭和尚【2156】:
> そう言う意味で、憤慨して常識論を振り回す大人の学識経験者の発言に少な
> からず失望したものです。むしろ私は、そんな「常識的には馬鹿げた」質問を
> しない大多数の若者も私も生命の価値についての真の知識を持っていない可
> 能性が大であることを危惧します。
「おとな」を困らせるためにこの若者は質問した、という状況もありえ
ますね。困らせるの好きな若者、っているでしょう?若かりしころの、
生臭和尚だったりして。

いずれにせよ、殺人は実際のところ社会的に(法的に)許容されている、
というのが実態です。殺してはいけない(法的な意味での)状況は、私
的な事情での故意の場合だけではないでしょうか?車の無謀(不注意)
運転による殺人も、戦争における殺人も法的には許されている。

もちろん、倫理的な文脈で(心の内面の問題として)「殺してはいけな
い」ことは、「自分の命が惜しい」人にとっては自明なことがらです。

ひとに自然にインプットされるのは「殺したくない」ということの方で
すので、何故殺したくないのか、ということこそラジカルな疑問でしょ
う。でも、戦争に駆り出されれば、ひとを殺さなくては「ならない」。
その若者は喜んで人を殺しに行くのでしょうか?

言い換えると、「なぜ殺してはいけないのか」という疑問は「殺したい」
という尋常でない感情を背景にしてのみ一定の意味があります。しかし、
「殺したい」ときに、「斯く斯くしかじかで」という理屈によって殺す
ことを断念したとしたら、「殺したい」感情は本物ではない、というこ
とです。本当に殺したいなら、「理屈」抜きで殺します。

したがって、問題解決のために有効な質問は、人はどのような状況に陥
ると「殺したい」という衝動を抑えることができないのか、ということ
でしょう。抑える度合いは本人の「強さ」に依存しますが、抑えられない
までの衝動に高めるのは周囲の状況ですね。

後藤@帯畜大【1990】:
> ・・・断片的な情報しか知らないので原因を特定すること自体に無理が
> ありますが、、、いじめを受けていたらしいこと、家庭内暴力の
> 末、精神病院に入院させられたという情報から、彼の追いつめら
> れた心理状況が分かるような気がしました(つまり、僕が彼の立
> 場(上記のような推論上の立場)に立ったら、同じような犯罪を
> 犯す危険性を感じ取ることができる、ということであって、上記
> 推論が正しくない場合には判断を保留する、ということです。)

先回にも述べたように、
> ・・・ただし、「自殺」や「他殺」しか道がないような人格的窮地に陥
> れば、「個人の尊重」などは二の次の問題となるのは自明でしょ
> う:この文章では、「自明」となるような条件設定をしたから、
> 自明なのです。
善人であっても罪なことをせざるを得ない状況がある。もちろん、悪人
は罪意識が低い(罪意識が低い人を悪人と呼ぶ)。。

葛貫さん【2141】
> 人は、社会にとっては、誰とでも置き換え可能、空いたニッチは直に誰
> かが埋める一人に過ぎない、という意味での「命の軽さ」で、だからこそ、
> 他者が守ってくれるのが当然のような感覚を持たず、自分で背負うしか
> ない重いものなのだという意味なのか。
「自分で背負うしかない重いもの」という感覚は僕にはありませんし、こ
こはキリスト教的な「原罪」を連想した一節です。冒頭に申し上げたよう
に、僕自身は「ウキクサ人生」ですので、「重い」話は苦手なのですが、、、

「当然のような感覚」は持っていませんが、 40数年、いつも「他者が
守ってくれる」幸せと有難さを感じてこれたことは、有難いというしかあ
りません。「背負う」という表現には「苦しみ」「苦難」が含まれていま
す。「正しく、強く、朗らかに生きよ。これが大和精神である。」とは、
祖父が15歳になる父に宛てた手紙の一節ですが、僕は結構これに共鳴し
ています。

他者からの有形無形の「守り」(愛情)を実感できてこそ、ひとは「強
さ」を保つことができる、と僕は考えています。逆にいえば、そうした
実感を味わえないで育ってくればとても脆くなってしまうでしょう。他
律的行動で誤魔化すか、究極の訴えに救いを求めるか、、、。

他者が守ってくれるのが「当然」ではないけれど「自然」であることが、
群れ動物として「絶対的孤独」には耐えられない「弱い」人間の潜在的
欲求である、と言えるのではないでしょうか?この意味で、「守られる
こと」に対峙するものとしての「重さ」は、とても悲しく辛い「孤独」
だ、と思うわけです。

佐川さん【2151】:
> > 「個人の尊重」を体現できる人格を形成するためには、愛情豊かで強靭
> > な感性が育てられるような社会的仕組みが必要であると思われます。
>
> 事実として「人の命は軽い」が、それは、「あなたの命が軽い」という
> ことではない。
>
> 事実として人は世界の構成要素にすぎないが、それは、「あなたが
> 世界の構成要素にすぎない」ということではない。
>
> 少なくとも、↑のようなアンビヴァレントな感性を保持できる、勁い理性
> を持って欲しいです(自戒を込めて)。

社会的文脈では軽いのに、どういう文脈なら重いのか?
一節前に述べたことからおわかりいただけるかと思いますが、自分を実
際に守り、愛してくれる人々に対して「重い」のだ、というのが僕の考
えです。

実際、仮に人が独りで生きているという状況を思い浮かべても、このこ
とは理解できるだろう、と思います。
・・・自分独りの他は、人間は一切いないし、自分が死んだ後も生まれ
てこないし、自分の記憶の中にも他者との楽しいコミュニケーシ
ョンはない、という状況です。また、自分が死んでも悲しむ他者
も「ペット」もいません。

自閉症とはこういう状況だろうか?詳しい方、教えてください。

言い換えると、他者から完全に見放されたとき、現実に自分の命は軽い
ものになる、と予想されます。ただし、人を自殺や他殺に追い込む「孤
独や屈辱」の臨界値はその人の「強さ」に応じて変わります。
「かわいい子には旅をさせよ」とはよく言ったものです。

この「旅」もいま急速に失われているように思われます。
大学生の幼児化については、このMLでも以前に話題になったような記
憶がありますが、、、

佐川さん【2151】:
> 子供が都市の中で生きて行くには、知るべきことがあまりにも多すぎる
> ような気がします。大人が時間をかけて学習したことを、子供は短期間
> で覚えなきゃいけないんだから、相当なストレスだと思います。
ここはちょっと僕の感じ方とは食い違っています。
まず、【子供が都市の中で生きて行くには、知るべきことがあまりにも
多すぎるような気が】するのはどういう点なのか、僕には全く思いつか
ないので教えてください。

子どもが知るべきことは、昔も今も、都市も田舎も、そんなに違わない
のじゃないか、というのが僕の考えです。

ただ、今は、マスメディアをはじめとして溢れる情報に接する機会が、
40年前とは比べられないくらいに多くなったし、皆が子どもに「答え」
を与えすぎている。子どもの素朴な疑問に、マスメディアが「親切に」
答えてくれています。
・・・知識は増えたけど、知識の味わい「中味」は逆に薄れてしまった
わけです。

いずれにせよ、子どもが抱えるストレスが40年前とは比べようもなく
なり、「過重」になってきただろうことは同感です。ただ、僕の捉え方
は、知らなくてもいいことを大人たちが知らせすぎている、という点に
あるわけです。知らせすぎることも、「旅」をさせてないということで
す。

葛貫さん【2155】:
> 何年か前に読んだ「平気で嘘をつく人たち」(スコット・ペック著)という
> 本の中に、「巨大化した組織は、分業化が進み、組織が産み出した
> 問題に対して、個人が責任を感じなくて済むように(?)なっている。」
> と、私には読み取れる部分があったように記憶します。

芥川の侏儒の言葉(1927)から、「兵卒」、↓

【理想的兵卒はいやしくも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。
絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。
すなわち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。】

トップに立つ人間が兵卒では困りますが、少なくとも日本では兵卒を作
り出す教育に熱心ですからね。素直に勉強してくれれば「いい子」です
から。「いい子」するのに順応してきた人たちというのは「兵卒」にし
かなれないのですが、教師も世の親たちも子どもにそれを求めてきたの
ですから、雪印事件のことでも、教師も世の親たちも本当は心中複雑な
気持ちになってもらわないといけないのですが、、、というのは言い過
ぎかなぁ。でも、そういう抜本的なところを変えておかないと、組織を
弄っても似たようなことが何度も何度も繰り返されていくことだけは真
実なのでしょう。

生臭和尚【2156】:
> 「真理は寒梅の如し、風雪に耐えて咲く」
素敵な詩を有難うございました。
斯様な真理に到達するためにも、孤高を守る(孤独に耐える)強さが求
められますね。

この一週間に少しずつレスしたため、全体として雑多な印象になってし
まい申し訳ありませんでした。



後藤 健
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生命を考える http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms
帯畜大 生物リズム学 Phone (& Fax): 0155-49-5612


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