[BlueSky: 186] 技術万能論と自由意志 Re:156 緑の革命


[From] Ken Goto [Date] Tue, 27 Jul 1999 01:33:55 +0900

青空MLの皆さん
後藤@帯畜大です。

今回は、技術万能論(技術賛美主義)とでも呼ぶべき、明治維新以来の支配的イ
デオロギーを巡って、思い付くまま考えてみました。

中澤さん【162】、長峰さん【152】、葛貫さん【163】、和尚【136】、
小宮さん【159、184】に対するレスでもありますが、かなりの長文ですの
で、お暇な時にでも読んで頂ければ幸いです。

なお、はじめに、【我が輩は猫である】の一節を引用しておきます(この部分だ
けは是非とも読んで欲しいと思ってます)。

★ 僕はさう云ふ点になると西洋人より昔しの日本人の方が余程えらいと思ふ。
西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点
を持って居るよ。第一積極的と云ったって際限がない話だ。いつ迄積 極的に
やり通したって、満足と云ふ域とか完全と云ふ境にいけるものぢやない。向に
檜があるだらう。あれが目障りになるから取り払ふ。と其向ふ下宿屋がまた邪
魔になる。下宿屋を退去させると、其次の家が癪に触る。どこ迄行っても際限
のない話しさ。西洋人の遣り口はみんな是さ。。。。西洋の文明は積極的、進
取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文
明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるものぢやない。西洋と大に違ふ
所は、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云ふ一大仮定の下に発達
して居るのだ。★

・・・長峰さん【152】が御指摘なされた「いたちごっこ」とは違う形ででは
ありますが本質的に同類の問題として既に夏目漱石によって予見されてい
たことになります。

(1)「技術賛美」イデオロギー
(2)二つの自由(資本の自由競争と個人の自由意志)
(3)農学栄えて農業滅びる
(4)研究者の研究課題を決めるもの
(5)研究者の自由意志と技術開発の社会的規制

********************************************************

(1)「技術賛美」イデオロギー

中澤さん【162】:
> 技術の進歩は好奇心にしたがって自由意思で起こるので,これを
> 止めようとする規範は,社会による自由の抑圧と似た構図になる
> (中略)
>      実は,環境問題に関してことさらシニカルな態度をとろうとする人の
> 存在も根は同じではなかろうか。たとえ,「このまま活動していたら地球が生命
> を支えきれないから,持続的生存のために開発や進歩を制御するべきだ」という
> 予測の元にであっても,社会による構造的抑圧が自由な人間活動を妨げるのは,
> どうにも気持ちが悪くなるのかもしれない。

中澤さんの↑のみかたはいい線ついているようにも感じるのですが、ちょっと誤
解を与えかねない言い回しがあるような気もするので、、、自由意志なり進歩な
りの意味について、僕の考えていることを補足します(尤も、僕の補足の方こそ
誤解を与えてしまうかも知れないことを恐れてはいるのですが)。

・「技術の進歩」と自由意志とは、本来お互いに無関係なことどもどうしで
はないかという点が、中澤さんの御見解に対する僕の素朴な疑問の出発点
です。

ただし、環境問題に関してことさらシニカルな態度をとろうとする人」の
思考パターンについては僕自身、全くといってよいほど知りませんから、
環境問題について技術的問題で「のみ」解決できる、とする立場だけを念
頭において考察することにします。

「技術の進歩」を「進歩」ととらえる視点は、価値中立的ではありません(我が
輩は猫↑を参照のこと)。一つの思想的立場を表明しているに過ぎません。ここ
では、「技術」という言葉を、西洋型テクノロジーあるいは、科学技術を指すも
のとします(まぁ、世間的な意味合いは、このようなものでしょうし、中澤さん
もそのような文脈で用いています)。

技術賛美論者は、察するに、御自身の「技術賛美」を一つの思想的立場に由来す
るものである、という自覚をもっていないのではないか、というのが僕の予想で
す。

・支配的(歴史的多数派かつ体制順応的)イデオロギーの枠内に身を寄せて
いると、それが一つの思想的立場に「過ぎない」という自覚はなかなかも
てない、と思います。主流であり、日本的な保守本流でもあるからです。

しかし、客観的に見れば、「技術(西洋型テクノロジー)賛美」は、明治維新以
来、国家指導者が広めようとしてきた一つのイデオロギーです。国家イデオロギー
の一つの基軸として出発してきたわけですが、そのかいあって、今では多数派の
イデオロギーとしても浸透している、と言ってよいでしょう。この意味で、それ
は、わが国における支配イデオロギーとなっています(国家指導者の、という意
味でも、また、多数派の、という意味でも)。

・今では大分薄れてきたとは思いますが、少なくとも2,30年前までは、
理数系科目の成績がよいことが「優秀」な学生の条件であり(成績のうえ
で)賞賛を浴びる条件であったのも、「技術賛美」が支配的イデオロギー
として浸透してきたことの一つの表われでしょう。

(2)二つの自由(資本の自由競争と個人の自由意志)

さて、話を戻します。
西洋型テクノロジーの野放しの浸透・拡大という「自由」は、利潤追求の自由で
あって、個人の自由意志としての自由とは何の関係もありません。ここら辺を錯
覚していると、浸透・拡大の社会的規制に対して、「個人の自由」を侵害するも
のだ、という錯覚を抱いてしまうということは十分ありうることです。

・「環境問題に関してことさらシニカルな態度をとろうとする人」が、この
ような誤解をもっているかどうかは知りません。

西洋型テクノロジーの野放しの浸透・拡大によって、奪われてきたものはたくさ
んあります。その、「奪われた」側の個人の自由と人権を想定してみれば、むし
ろ話は逆なのだ、ということが明らかになると思います。

・最も単純な例題は公害(と公害輸出)です。

・もっとこみいった例は車。支配的イデオロギーの側にとって、車は精々エ
ネルギー問題、地球温暖化問題の元凶の一つではあっても、経済成長を推
進し、人々の暮らしを快適にした功労者です。しかし、少数派イデオロギー
の側からすれば、環境破壊、人権破壊の基本的な武器であったわけです。
つまり、ターザンごっこができる町を望んでも、その望みは殆ど絶望的な
ものぐらいに抑圧されていて、実際上、多くの親はそれを望むことさえし
ないぐらいに、生活権を奪われている、と観ることもできる、と思うので
す。

つまり、社会的弱者の個人の自由と人権を奪う形で、「技術の進歩」という利潤
追求の自由が尊重されてきた、というのが現実の歴史となっているわけです。そ
うであるにもかかわらず、「技術の進歩」に対する社会的規制を「自由意志の侵
害」であると感じる人がいるとすれば、その人は、「技術賛美」を絶対善とする
無定見、あるいは支配的イデオロギーに対する迎合を表明しているだけである、
といって差し支えないものと思います。

・もちろん、僕は、西洋型テクノロジーを全面否定しているわけではありま
せんし(その恩恵にも浴しながら生活しているわけですが)、資本の自由
競争を否定しているものでもありません。そうではなく、それらが「個人
の自由と人権」を奪う形で行われてきたことに対しては、厳しく批判しな
ければならないだろう、と申し上げているわけです。

そして、このような形での「批判」なり「社会的規制」は決して、「個人
の自由と人権」を抑圧するものではなく、むしろ守るものであろう、と申
し上げているのです。

しかし、「技術の進歩」が、個人の自由意志に基づく研究の積み上げによって達
成されることは事実です。そこで、最後に(第(5)節で)、この面について考
えてみます。

(3)農学栄えて農業滅びる

後藤【156】:
> ここでは、いわばテクニカルな問題について語られていると思うのですが、僕が
> 気にかかるのは、社会的な問題です。
>
> つまり、遺伝子操作による種子開発によって、多国籍企業による種子の独占が一
> 層進み、土着農業をどんどん破壊していく気がします。

長峰さん【165】:
> この問題は倫理的な問題だし、遺伝子組換えに限った問題でもないと思って
> 触れていませんでした。
>
> (中略)
>
> 世代を経るに従って生産能力が低下するので、また種親を輸入することになりま
> す。つまり、植物で言うところの種を、すでに企業に握られているわけです。植
> 物の種についても特定の企業が生産しているものが大多数だと思いますが、その
> 方面の方どうでしょうか?

ブロイラーの話、とても勉強になりました。有り難うございます。「企業に握ら
れている」ことの例をよくご存知の方、いろいろ教えてください。

・須賀さん【179】が、生物多様性の崩壊に関連して、一部、問題を整理
してくれました。【179】に関連してはまた後ほどレスしたいと思いま
す。

わが国でも、農学栄えて農業滅びる、といわれだして久しいですが、国家指導者
にとっては国内農業が滅びてまずい、という認識はないものと思います。しかし、
我が国土の破壊は、あらゆる側面で農業(・林業・漁業)潰しと一体となってい
ます。

長峰さんをはじめ青空MLの皆さんは、この点、どうお考えになりますか?

小宮さん【159】:
> >長峰さん【152】:
> >そうなると、その害虫や雑草は一気に増殖することになり、さらに新し
> >い遺伝子の導入でそれを除去することになります。そうなると後はいた
> >ちごっこで、今の医療で問題になっている抗生物質と抗生物質耐性菌と
> >の競争のようなことになるでしょう。もちろん、これらの問題は近い将
> >来解決できるものと、私は思っています。
>
> 長峰さんは、遺伝子組み替えによって生まれた問題も、いずれは科学が
> 解決するであろうと思われているのですね。でも、そうでしょうか?
> 僕は自然の力というものは、人間がコントロールできるほど小さなもの
> ではないと思います。遺伝子組み替えでどんなに強い毒素を持つ作物を

長峰さんの、専門的研究者としての御立場はよく理解できます。数多くの現場の
研究者も同じような考え方をしていることと思います。それはまた、メジャーな
研究者になっていく「道」としては当然のこと(王道という意味での当然)でも
あります。

僕自身は農学とは一切無縁の研究を行っていますから、農学に対してはいわば一
般庶民(つまり、当の問題にとって素人)の目をもって見ています。技術万能論
で、ホントに環境問題は解決できるのか。この点で、小宮さん【159】の御見
解にも同意します。

農学栄えて農業滅びる、これが素人としての実感です。このあたりのところにつ
いて農学者の方々のお考えを広く知りたいと思っています。

(4)研究者の研究課題を決めるもの

葛貫さん【163】:
> 科学者や技術者は、どこか、新しいおもちゃに夢中になって遊んでいる
> 子供のようなところがあるのかもしれません。(偏見かな?)
> 自分達が開発したものを、とにかく一度は使ってみなければ気がすまな
> いところがあるように思われます。
> 投資した分だけは取り返さなければならないという思いがあるのかもし
> れませんが、科学が可能にしたことを、すべて、使わなければならない
> ということはないでしょう。

「夢中になって遊んでいる子供のようなところ」がないと優秀な研究は生まれな
い、とは思います。しかし、問題の真因はもっと別なところにあるように思いま
す。

少なくとも、大学や国公立の研究機関の場合、研究者の研究テーマにはかなりの
自由度が与えられています。

・閉鎖的な体質の、例えば多くの医学部の講座のように、助手は教授の指示
に随わなければならない、というような制限というか不文律というか徒弟
制度というか、もありはしますが。その制限は少なくとも法的義務ではな
い。

しかし、現実には、↓。

和尚【136】:
> 私の目からはそのような単調な世界が,非常に同質な行動様式を産み,
> 同質の集団内での過当競争を引き起こしているように見えます。研究の世界でも
> 学会に行くと,トレンディーな研究のオンパレードで,そのような研究者間では,
> 研究速度の競争が激烈,学生を労働者にしています。

研究テーマは(事実上)無限にある。けれども、どれも似たような研究です。研
究費の補助を受けやすく、かつ、研究成果のでやすい研究課題が確かにある。

和尚が御指摘のような「トレンディーな研究のオンパレード」の原因となってい
る「単調な世界」とは、僕の言葉で言うと、支配的イデオロギーの世界、という
ことになります。

・30年前、大学紛争の頃、大学教員の「研究姿勢」つまり思想性は、学生
たちによるチェックを受けたわけですが、、、、はははは、今は、国家に
よる「業績チェック」に置き換わりました。研究者は、研究業績をあげる
豚(マシーン?)であればよくなったというか、豚(マシーン?)にまで
「格下げ」されたわけです。

豚くんにはだいぶ失礼で無礼な言い回しになってしまいましたが、お赦し
あれ。


(5)研究者の自由意志と技術開発の社会的規制

遺伝子工学に依拠した研究も、業績が上がり、研究費が貰え、世の中(?)に歓
迎されるからこそ、行われます。誰も振り向かなければ、誰も遺伝子工学には手
を出しません。言い換えると、研究者が自由意志によって選び取っていることが
ら(のすべてとは言わないにしてもその基本は)「社会的評価」なのです。つまり、
自由意志による選択のかなりの部分は、支配的イデオロギーの内実によって規定
されている、ということです。

・基礎研究の分野でも遺伝子工学は目覚しい成果を挙げていることは、僕も
重々承知しており、歓迎しています。僕が言いたかったことは、遺伝子工
学に依拠しないでもできる研究が、まだまだたくさんあるのに、そうした
研究よりは、遺伝子工学的研究に大勢が集まってくる傾向が強い。それは
なぜなのか、という視点です。

因みに、自由意志とは、可能な選択肢が幾つかある時、そのどれか一つを
自由に(任意に、主体的に)選択することのできる主観(こころ)のこと
です。

このこと(テーマの社会的規定性)は、企業内開発エンジニアの方々を想定すれ
ば、より一層明白でしょう。ある商品(技術)を開発することは、社員としての
義務(?)というか、上司の命令に背くことは、首きりを意味する、というか、
「抵抗」の自由度は、大学教員や国公立研究機関の研究者よりはるかに小さい場
合が多いでしょう。

・もちろん、開発の自由度は企業体質に大きく依存していると思いますが、
商品化されるためには企業の利潤目的に適合していなければならない、と
いう意味でも、自由度は小さい。

小宮さん【159】:
> 種を絶滅させるかもしれない所まで来ているのに、それでも我々は
> 経済発展のことを考えて環境破壊を続けています。僕も電気会社で、
> 数々の電気製品の開発をし、環境汚染物質をばらまいています。
(この矛盾は一社員の力ではどうしようもない:産業構造を変えたり、企業に対
する社会的規制を強めたりする他、手立てがない)

おっと、もっと楽しいメールが今届きました。
小宮さん【184】:
> なっていました。僕は結局リサイクルショップで昔の押しボタン
> 式のシンプルなものを買ったのですが、全く不具合はありません。
> 扇風機をマイコン制御にしてまで「便利な」製品を僕らに売り付
> けなくてはいけないのでしょうかね(なんて、作っているのは僕
> なんですが…)
小宮さん御自身は苦笑されながら御購入なされたものと思いますが・・・最後の
オチはなかなかに微笑ましく感じました。

さて、、もちろん、好奇心や想像力は、技術開発なり基礎研究のいのちです。し
かし、好奇心や想像力を振り向ける対象自体が社会的に強く規定されている部分
を観ておかないといけないと思います。

・例えば、クローン人間作成技術が、明治時代に俎上に上っても、その技術
に好奇心を持つ人は、今より比べようもなく低かったと思われます。日本
的伝統からすれば、クローン人間作成はグロテスクそのものだ、と思うか
らです。

2年前の帯畜大一年生に対するアンケート、ならびに、僕のホーム
ページでのアンケートによれば、現在、賛成派は20%前後と思わ
れます。

好奇心や想像力が、科学研究(知の発見・創造)の枠内にとどまっているならば、
それは個人の自由意志の裁量の範囲でしょう。しかし、それが、技術(モノ)の
開発研究・生産に及ぶなら社会的規制は不可欠ですし、自由意志の侵害にはなり
ません。何故なら、技術(モノ)は、社会的な実力行使であり、したがって、そ
れによって「個人の自由と人権」が侵害される可能性を捨て切ることはできない
からです。

・念の為に:ヒトゲノムを一般論として解読することは科学研究の範疇に入
りますが、それを個人情報として社会的に活用することは科学研究とは全
く無縁の行為ですから、社会的な規制が必要になってきます。


たくさんの論点を詰め込んだため、分かりづらくなっていることをお詫びします。
それに、信じられないかもしれませんが、ここ帯広の研究室内は、うだるように
暑く、とても筑波のようには快適ではありません。その証拠に、ここ数日、多分、
このパソコンのCPUの熱が十分放散されないためか、しょっちゅう、ハングアッ
プします。僕の体内CPUも似たようなものです。ごめんなさい。


後藤 健
=========================
帯畜大 生物リズム学 Phone (& Fax): 0155-49-5612

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