[BlueSky: 882] Re:847 起承転結のない話


[From] "Noriaki Ikeda" [Date] Sat, 11 Sep 1999 18:45:01 +0200

後藤さん、みなさん、こんにちは。
フライブルクの池田です。

後藤さん、ご指摘ありがとうございます。
試験が終わるまで、メールは書かないつも
りでいたのですが、いつのまにか、キー
ボードに手が吸い寄せられてしまいました
。「日本語を書くのはいい気分転換にな
るから」、と決心が弱い自分に言い訳をし
て。。。

後藤さん:
>このスレッドで問題にされていたのはより
高級で「芸術的な」感覚で
>した。そこでの論旨を敷延すれば、西洋に
は芸術が育たない、という
>矛盾した結論が出てきてしまいます
>
>日本にも西洋にもそれぞれに特有な芸術文
化が培養されてきた。これ
>が事実です。つまり、理解することと感じ
ることとを対立的に論じて
>も不毛なのではないか、ということです。
そうではなく、森羅万象を
>どのような方法と態度で理解するか、とい
う点に彼我の違いがあるの
>だ、と思うわけです。

>・・・日本芸術においても、芸術家は彼(
彼女)に固有な視点で自然
>
を「深く」理解している。それは、なるほ
ど科学的理解とは異
>
なるかもしれないけれど、「理解の一形態
」であることに違い
>
はありません。その理解がなければ、感動
的な芸術を産むこと
>
はできないかもしれない。ま、僕は芸術家
ではないので、曖昧
> に表現しておきますが。


私は、西欧的な自然観を「理解すること」
、日本(一部のアジア)的な自然観を「
感じること」というふうに自分の中で定義
していました。
「理解すること」は、「自然」を自分と対
峙するものとして見て、そこに法則性、
因果関係などを見出すこと。法則性や因果
関係を求めない科学的でない「理解」を
「感じること」と、定義していました。
しかし、日本の俳句や和歌、絵画に見られ
る独特の自然観も、後藤さんが指摘され
ているように、自然に対する「理解の一形
態」と定義したほうがいいように思えま
す。私が最初に表現した「感じること」で
はなく、「西欧とは別の自然理解」と表
現したほうが、適切かと、思います。あり
がとうございます。

昨日、ドイツで読もうと思って持ってきて
いた「我が輩は猫である」を読んでいま
した。後藤さんが[186]で引用された部分の
すぐあとに次のような文章が続いていま
す。

「山があって隣国へ行かれなければ、山を
崩すという考えを起こす代わりに隣国へ
行かんでも困らないという工夫をする。山
を壊さなくとも満足だという心持ちを養
成するのだ。それだから君見給え。禅家で
も儒家でもきっと根本的にこの問題をつ
らまえる。いくら自分が偉くても世の中は
到底意の如くなるものではない、落日を
めぐらす事も、加茂川を逆さに流すことも
出来ない。只出来るのは自分の心だけだ
からね。心さえ自由にする修行をしたら、
落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なも
のではないか、今戸焼きの狸でもかまわん
でおられそうなものだ。」

西欧で「自由」ということばは、主に、市
民革命で市民が勝ち取る「自由」、商売
の「自由」、言論の「自由」、というふう
に使われてきました。これらは、矛先が
「外」、「社会」に向いています。これら
の「自由」は、自分の周りにある「障害
物」(権力者、社会制度、法律、慣習など
)を取り除く、または壊すことによって
獲得する自由です。「我が輩は猫である」
で述べられている、仏教または儒教的な
「心の自由」とはその矛先も性質も異なる
ものだと思います。

現在、ドイツでは、仏教的な「心の自由」
に関心を寄せる人が増えてきているよう
です。その証拠に、フライブルクにもたく
さんの中国や日本の武道教室、冥想やヨ
ガの教室があります。社会のシステムを変
えていくことによってだけでは、幸せに
はなれない、と考える人が増えているので
はないか、と私は思うのですが。

私は、どちらの「自由」がいい、とは一概
には言えない、と思います。
西欧的に周りの構造、形式を変える事によ
って、心の自由も獲得できる、という場
合もあると思います。例えば、労働組合が
会社または政府と戦って、完全週休2日、
有給30日を獲得する。それによって自分の
時間が持てるようになり、趣味や余暇を
楽しめるようになる。教育制度や福祉制度
を変えることなどでも、同じ事が言える
と思います。

構造や形式を変えるより、心の持ち方を変
える事によって簡単に幸福になれる、と
いう場合も在ると思います。例えば、「お
金がなくても幸せだ」と思えるように心
を養成する、他人との競争に負けても気に
しない、などなど。

話しは変わりますが、先日「スターウォー
ズ、エピソード1」を見ました。
印象的だったのは、登場人物の衣装でアジ
ア的なものが多かったことです。そう言
えば、せりふの中にも、「内なる力」「過
去でなく、未来でなく、今その瞬間に集
中しろ」「直感を信じろ」など、仏教的な
ことばが在りました。一緒に見に行った
アメリカ人の友達にその事をたずねてみる
と、「ジョージ、ルーカスは、公的には
クリスチャンだけど、内面的には仏教徒な
んだ」ということです。あ、だからか、
と納得しました。あと、砂漠の商人がトル
コ訛りのドイツ語を話していて、悪者が
、ロシア語訛りのドイツ語(ドイツでは字
幕ではなくほとんど吹替え)を話してい
たのが、印象に残りました。

なんだか、自分で「起承転結」と言ってお
きながら、まとまりがない「転」ばかり
の文章を書いてしまって申し訳ありません
。まえに読んだ本に、日本語の文章は、
「つれづれなるままに」と「連想」によっ
て文を運ぶものが多い、と書いてありま
した。その方が、読者に親しみを持っても
らいやすい、と。でも、議論をするには
あまり向いていないかも知れませんね。


池田憲昭

Noriaki Ikeda
Peterbergstr. 31
79117 Freiburg, Germany
tel/fax. 0761/4002053
email. ikeda@uni-freiburg.de












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