[BlueSky: 805] Re:789 746 、 729 「共有地の悲劇」「自然環境は資源か?」


[From] GENNGOROU@aol.com [Date] Tue, 7 Sep 1999 12:04:19 EDT



坂田さん、皆さまへ。

              ゲンゴロウです。

お返事をありがとうございます。
もしかすると,坂田さんの文を読みきれていないかもしれませんが,
先にお詫びしておきます。
また,
メールでのやり取りの傾向か,私のメール反論が主になっているようですが、
かなりの部分で,坂田さんの考えを尊重し,同意していることを
お伝えしておきます。私の文は長いですが,それは,
微妙な部分を,伝えたいという一心です。
さらに,「です。」「だ。」などという断定文を私が使用していても,
それは,私の自分への自分なりの説得だとお考えください。
では,
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坂田さん:
> 須賀さんのつけたタイトルでやらしてもらおうかと思ったのですけども、
> 「自然環境は資源か?」では、自然環境は資源でないと言う人はいない
> と思いますので、このタイトルは変ですよ。

どうも,この辺に,ポイントがあるように私は感じます。

私は「自然環境は資源か?」という疑問の投げかけは,重要な点として,
捉えました。なぜ,重要と感じたかというと,「自然環境は資源か?」を
「自然環境は資源としての意味しかないのか?」と捉えたからです。
で,私の考えは
「自然環境は資源とだけ考えられない」です。

坂田さん:
>資源というのは、「何らかの需要があるもので、誰かが利用すれば、
>他の者にとっての利用価値が減るもの」と考えてもらえばと思います。

こう言われれば言われるほど、相変わらず、私には「資源」という
言葉がしっくりきません。
というのは,「需要」「利用価値」という言葉から、役に立たない
自然物が,無視されている気になります。
せせらぎの音,波の景色,セミの声なども,ホテル業者の景観の
理論に取り込まれてしまうような気になるのです。

>今回の手紙では、「共有地の悲劇」の議論を受けて、「競合する資源と
>しての自然環境」という見方から
>1.自然環境を資源として考える生態学的あるいは経済学的思考の
> 功罪について
>2.人の「倫理」や「自然への畏敬」や「深層心理」に自然環境の保全
>  を期待することへの反対
>と言うことで私なりに意見を述べることにします。

分かりました。いつも,分かりやすく,先に提示していただき
ありがとうございます。書いていただいたことで分かったのだと
思いますが,これが坂田さんの意見であるならば,
私との討論ではなくなります。なぜなら,

私は,倫理,自然への畏敬の念「だけ」で,自然環境を
保全するべきだとは,言ってないつもりです。
また,経済学的な思考が悪いとも言ってません。
そう取られてしまったのは,私の未熟です。

私の考えは,
「自然を愛するだけでは自然環境の保全はできない。
 多くの生物学者,経済学者,政治学者,詩人などの思考をもって
 解決すべき。しかし,その「前提」には,地球全体をアクアリユ
 ームのような膨大で様々な生物の存在が関係している存在と考え,
 だからこそ緩やかな変化の中で生物は生きており,それを知れば
 知るほど,人は「畏敬の念」を強く感じるだろうと考え,もしも,
 「畏敬の念」を感じてない者は,己の立場でしか考えていない可
 能性,ないしは,全体に立脚して思考をしていない可能性がある」
と考えています。
で、前提という言葉には前とはついていますが、
思考しているときに、ずっと念頭に入れておくことという意味です。 

この私の考えには,ちょっと抽象的なことをいいますが,
「部分は全体から,全体は部分から」という根があります。
もう少し言うと,
「物事を考えるときに,部分は全体から影響を受けているので部分を
 考える際でも全体を考えなければならないし,全体を考えるときに
 部分も考えなければならないだろうなあ」という私の思いです。
そのことから,
最初に,広木さんが,
「自然環境は人間にとって資源でしか・・・」と言われたので,
私は,その事に強く反応し,言葉の使い方だけの違いかな,
とさぐりを入れましたが,どうも,「畏敬の念」的な恐れが
感じられないような気がしましたので,こうして意見を言っている
次第です。

私はロマンチックに自然が好きですが,それは,私が都会に
住んで,仕事も自然を相手にしていないからでしょう。
そのような立場の私と,荒れる可能性のある北海の海で漁をする
漁船の乗組員とでは考え方も違ってくるでしょう。
それは,立場が違うからでしょう。また,自然災害で親族を亡く
された方や,逆に,心が自然に癒された方なども,自然に関しては,
様々な想いがあるでしょう。
でも、だからこそ、私のようにロマンチックな人間もいていいのです。
そのような私から感じて、「資源」という言葉は嫌いです。

> > なぜかと言いますと、あることを除いて、すべて、私もそう思うのです。

> 同意していないことをはっきりさせて、そこを議論しないといけないですね。

あの後の文章全部が,同意していないことだと,私の頭では
考えていました。それを明示しないで,申しわけありません。

つまり,「畏敬の念」をおろそかにしては,あるいは,軽く考えては
いけないのではないかが,私で、
「畏敬の念」では解決できないが坂田さんだと。
つまり、「畏敬の念」の理解のしかたでしたね。
細かいことだとは思いますが,私にはとても重要に思えるのです。

> 「ゲンゴロウさんは、何を楽天的なことを言っているのだ。漠然と
> 「倫理観」や「自然への畏敬」に頼るなんて、問題解決の努力を
> 放棄しているようなものじゃないか。」という考えから、意見を
> 書くことにしました。

私,ゲンゴロウですが,もし,この様に倫理観「だけ」に頼るという
ような意味のことを言う方がいたら,今度は,逆に,坂田さんと
同じ事を言うと思います。

> 無理そうなことでも、性急に「人間のあるべき姿」とか「洗脳」とか
> 言わずに、生き物同士の関係や人間同士の利害関係の構図を読み解く
> 努力をするべきじゃないでしょうか?(どうせ「あるべき
> 姿」なんてすぐにはわからないのですから。) 

ほぼ完全同意です。(完全ではない部分は私自身への懐疑です)

> 生態学や経済学の成果は、もう少し感情に走るのをこらえて
> 読み解けば、役に立つものもいっぱいあると思うのですよ
> (すぐに、あるいは直接的に、役立つかどうかは別ですし、
>  あるべき姿がわかるものでもないですけど、何かしら展開
> していくと思います)。

耳が非常に痛いですが(苦笑),完全同意!

> そして、このような自然環境を資源としてみる思考は、自然への
> 畏敬や愛と相反するするものではないと思います。畏敬すべき愛
> すべき資源としてなわばりを主張すべき問題だと思うからです。
> そして、畏敬の念や倫理観のない人(あるいは違ったかたち
> の畏敬の念や倫理観を持っている人)に対していかなる説得力なり
> 効力を持ち得るかが重要なポイントだと思います。

複合的に半分同意。。
というのは,愛するという感覚と,畏敬とはかなり,私としては
違ってます。「畏敬の念」の前では,縄張り争いは吹っ飛び,
今の,環境変化(環境破壊)を考えると,
「縄張り争いの考えもまず,棄てなければ」になります。(私)

>精神的なものも含めて自然環境に何を求めるか? 繰り返しになり
>ますが、価値観の問題でもありますから、どれだけ違う価値観の人
>を相手に説得力を持つか、が問題です。「私の好きな珍しい花やけ
>だいじにしてや」とかや「生き物いっぱいの方が面白いやんけ」
>だけだと弱いような気がするのですけど・・・)

かなり同意ですが,
価値観ということの捉え方が,私と坂田さんでは違います。
私としては,「価値観」を説得できるものと考えていません。
説得しようとすると,殺される可能性もあるのが人の「価値観」だと
思ってます。
価値観の所有は人間(精神生物としての人間)の本質にも関わっていて,
人間(肉体生物としての人間)の生死を越える場合があると認識して
います。
そういう意味からも,その場しのぎでは,法的な規制で良いかもしれないが,
ゆくゆくは,イスラム,キリスト,仏教などにも勝る価値観として,
自然にたいしてのみ,「畏敬の念」を持たせるような地球規模の統一した
自然法が必要ではないかと思うのです。

> 結局、「自然環境」が自分にとってどのような資源かを考え、
> どこの誰とどのように競合しているのかを把握しておかなければ、
> 自分にとって好ましい「自然環境」は維持できないのではないで
> しょうか?
> 生活のためであろうが、精神生活を豊かにするためであろうが、
> 開発して儲けるためであろうが、「自然環境」はお互いにそのため
> の資源です(誰かが確保すれば、他の人は使えなく(使いにくく)
> なります)。自然には再生能力がありますし、いろんな方策を通じ
> て好ましい共同利用を実現することは可能だと思いますが、潜在的
> にその資源を巡って競合し合っている構造があるということを把握
> しておくべきだと思います。

一点を除いて,とても納得です。
一点は,どうしても「資源」という言葉のニューアンスです。

坂田さんもおっしゃっていたと思いますが,自然の中で
人間以外の生物や物や現象で,人間にとって悪影響のあるものも,
巡りめぐっては,人間を生存させている可能性があるのに
それをカットするようなニューアンスを受けてしまいます。
目先に見える需要だけを扱うように感じます。

***********************************************************
仮に,巡りめぐって関係するする自然物全てを「資源」だと
言い切ってしまったとします。
その場合,その関係の膨大さに、かならず「畏敬」が生まれる
のではないでしょうか。
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それでも「大丈夫,任せなさい」という言葉が返ってきたら,
そういう人を,私は危ないと感じます。
そのようなことで,坂田さんがおっしゃる
「何らかの需要があるもので、誰かが利用すれば、他の者にとっての
  利用価値が減るもの」
として,「資源」を具体的に捉えることは不可能であると考えます。

言い換えると「資源」という言葉を用いることで,「畏敬の念」を否定
することになり,自然から離れた自然保全がなされる可能性も
生まれるのではないかと推論し、危惧する次第です。

> 私が出した砂採り業者への返答にはそれなりのバックグランドが
> なければ効果がありません。もっといい返答もあるのではないか
> と思いますし、もっといい解決法があるかもしれません。

いいえ,私では,考えられないことだと思ってきいております。
私は,いつも頭の中で,幾人もと討論していて疲れ,あまり成果がないので,
坂田さんという他者との討論は,「そうだなあ・・」などと考えられて,
とてもありがたいです。また,話しながら,自分で気が付くことも多々あり,
言い換えれば,坂田さんに導いていただいていることにもなります。

> しかし、お互いの倫理とか、自然に対するおそれとか、ましてや、
> 深層心理に訴えるなどという方法で、自分とは価値観の合わない
> 「自然環境」の利用に対抗できるとは私は思いません。
> 中沢さんが述べられたように、過去にある条件の下では、それが有
> 効な役割を果たした(あるいは果たした様に見える?)ということ
> はあるかもしれませんが、今後これが有効に働くとは思えません。

このメールの上部でも言いましたが,それだけで対応しようとは
私も思いません。それだけなら,私も「変!」だと言います。

前提が「自然への畏敬の念」であり,その手段として「価値観の変更」
を考えているのが今の私です。
法には,法であることから、法の抜け穴があり,その抜け穴をふさげる
のが「価値観の変更」ではないでしょうか。
法の精神を知らせずにいるから,法の網の目を抜ける者ばかりが生まれる
のだと思います。

ところが,ここが,私の頭の痛いところですが,
現在の多くの内乱や,戦争を見ると,どうもこの「価値観戦争」の
様相を帯びていることです。民族戦線,宗教戦争,経済戦争など
すべての戦争は,その根底に価値観の収奪戦があるのではないかと
思えるのです。
価値観から理屈は生まれるので,最終的には価値という説明不可能な
深層の心に関係して,もう,理論も理屈もない状態になってしまっている
ようです。
理論で説き伏せられる寸前で,価値と価値というものが,
大儀名文を振りかざし争いが起きているように感じます。

なので,だからこそ,私としては,その価値観そのものを
どうにかして,穏便に「変更」出来ないかと
考えるのです。

> −最後に、無責任なことを言って申し訳ありませんが・・・−
> ついつい投稿してみたものの、あまり余裕がないので、返答が遅く
> なったり、しなかったりすることがあるかもしれませんが、どうか
> よろしくお願いします。

ぜんぜん,無責任だとは思いません。
私も,同様ですし。。
それより,一緒に考えて下さっていることに感謝しています。

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ゲンゴロウ



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