[BlueSky: 772] Re:743 「理解する」ことと「感じる」こと


[From] Minato Nakazawa [Date] Mon, 06 Sep 1999 09:46:53 +0900

中澤@東京大学人類生態です。こんにちは。

(件名:[BlueSky: 743] 「理解する」ことと「感じる」こと Re:732 に於て)
Fri, 3 Sep 1999 16:18:53 +0200頃,Noriaki Ikedaさん:
> これは、「理解する」ということを重視してきた西欧の文化と、「感じる」という
> ことを重視してきた日本の文化の違いが表れているのでは、と私は思います。
この違いの根本には,世界観の違いがあるように思います。
鈴木秀夫さんという地理学者の書いた「森林の思考・砂漠の思考」
NHKブックス,1978年という本に,いろいろ例を引いて2つの
世界観の違いを述べています。

もの凄く短くいうと,世界には大雑把に分けて,「世界にはじめと
終わりがある」という世界観を成立させた「砂漠の思考」に文化的
起源をもつ文化と,「世界は永遠に続く」という「森林の思考」に
起源をもつ文化があって,われわれの日常の行動は,このどちらか
の世界観に規定されて行われていて,時には,2つの世界観に交々
支配されていることもある,という論旨です。ドイツも含め,西欧
文化の根底にあるキリスト教や,その出自であるユダヤ教において
は,唯一の神によって世界が「創造された」とされています。彼ら
は,その影響を有形無形に受けています。日本を含む森林的世界で
は,世界ははじめからあり,万物に神が宿ると考えられてきました。
これは,あくせくと生きなくても豊かな恵みが得られる森林という
環境のおかげだと思われます。

さて,これがなぜ池田さんのいわれた「理解する」ことと「感じる」
ことの違いに通じるかというと,この2つの「わかり方」の差は
決断の即時性の差だと考えられるからです。つまり,ある道が
水場に通じる道であるか否か,「わかりません」といわずに,
無理にでも法則性を理解したと思いこんで「こっちだ」と決断
しなければ,砂漠では生きてゆけなかったからだと考えるわけです。
森林の民は,「我」に視点を固定して,そこから四周を見渡して,
見える範囲のことから気長に「感じて」ゆけば何とか生きてゆける
のではないかと。日本文化の底流には,森林の思想が引き継がれて
きたのだという人は,鈴木さん以外にもたくさんいます。

与えられた部分的材料を鳥瞰的に見て一般法則を推定して決断して
ゆく砂漠の思考は,西洋近代文明を開花させましたが,それが
またさまざまな問題を生みだしてもきた,とも考えられます。
#もっとも,鈴木さんは,どちらかといえば,砂漠の思考が生み出す
#大局的見地の効用を主張しているようですが。

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Minato Nakazawa, Ph.D. <minato@sv3.humeco.m.u-tokyo.ac.jp>
Department of Human Ecology, Univ. Tokyo


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